ギリシャの庭で「故郷の味」を一から作り直した夫婦
ギリシャ第二の都市テッサロニキの郊外に、5,700平方メートルの土地がある。そこに暮らすベトナム人のチュック・クインさん夫婦は、自宅の庭で野菜を育て、米から麺を打ち、港で買った魚を塩で漬け込んでナンプラー(ヌクマム)を発酵させている。買えば手に入る調味料を、わざわざ2年かけて自分で仕込む。その背景には、移住先で「故郷の味」をゼロから作り直さざるを得なかった越僑(海外在住ベトナム人)の事情がある。日本でも海外移住や二拠点生活への関心が高まるなか、食文化をどこまで持ち運べるのかを考えるうえで示唆に富む話だ。
ベトナム旅行の前後に現地の食材や調味料を持ち帰る人は多いが、この夫婦の取り組みはその先を行く。輸入に頼らず、原料の栽培から発酵まで現地で完結させているのだ。
投資移住で得た時間、許されなかった就労
夫婦がテッサロニキに移り住んだのは2019年。ヨーロッパの投資による居住権プログラム(いわゆる投資移住)を使っての移住だった。翌2020年に土地付きの家を購入している。ただ、取得した在留資格では給与所得を伴う就労が認められていなかった。そこで2人は50代で「引退」を選び、市民権取得を目指してギリシャ語の勉強を始めた。
地域で唯一のベトナム人世帯となった夫婦は、ホームシックをやわらげるために、故郷の暮らしの断片を自分たちの手で再現していく。庭づくりは、その中心的な営みになった。
苗木をハノイから運び、雪に阻まれる
クインさんの夫は一度ハノイへ戻り、果樹の苗と野菜の種を買い込んでギリシャへ持ち帰った。土地には自動灌水システムを設置し、本格的な菜園に仕立てている。当初は「ギリシャの気候はベトナム北部に近いだろう」と見込んでいたという。
ところが現実は甘くなかった。冬の積雪が、持ち込んだベトナムの植物の多くを枯らしてしまう。ハノイ名産の「ディエン」ブンタン(ザボン)をはじめ、ドラゴンフルーツ、ライチ、ロンガン、スターアップル、そしてベトナムバームやライスパディハーブといった香草が冬を越せなかった。熱帯・亜熱帯の作物を地中海性気候に持ち込むことの難しさが、ここに表れている。
それでも夫婦は試行錯誤を重ね、現地の気候に合う作物へと軸足を移していった。庭で実るようになったのは、イチジク、サクランボ、ブラックベリー、ラズベリー、ビワ、スモモ、ナシ、モモ、ブドウなど。野菜も空心菜、もち米のトウモロコシ、豆類、マクワウリ、からし菜などが育つようになった。さらにオリーブの木50本からは、年間100リットル以上のオリーブオイルを搾っている。
2年発酵のナンプラー、現地の魚と塩で
調味料づくりの核心がナンプラー(ヌクマム)だ。クインさんはハノイの友人からレシピを教わり、年間を通して切らさないよう自家発酵を続けている。仕込みの配合は次の通りだ。
| 材料・工程 | 内容 |
|---|---|
| 魚 | 生魚4kg(港で購入、海水で洗う) |
| 塩 | 現地調達の粗塩1kg |
| その他 | パイナップル1個 |
| 発酵 | 約2年 |
| 熟成 | 濾過後、天日で約6か月 |
魚と塩を漬け込んで2年寝かせ、濾したうえでさらに半年、太陽の下で熟成させる。これでようやく一瓶の魚醤が完成する。ベトナム本国の伝統的なヌクマム製法も、魚と塩を木樽や甕で長期発酵させる点は共通しており、夫婦は移住先でその基本を忠実になぞっている。エビを約1年発酵させたマムトム(エビの発酵調味料)も仕込むという徹底ぶりだ。
主食も妥協しない。地元ギリシャで栽培された米を使って米麺を手作りし、フォーやブンといった故郷の麺料理を食卓にのせている。原料の米そのものが現地調達である点が、この取り組みの自立度の高さを物語る。
越僑の食へのこだわりと、各地での反応
この夫婦のような営みは、世界各地の越僑コミュニティに通じる傾向だ。現地の反応や類似の声を整理すると、いくつかの共通点が見えてくる。
- 故郷の調味料が手に入らない地域では「自分で仕込むしかない」という当事者の声が多く、発酵食を自作する家庭は珍しくない。
- 同じ越僑からは「ここまで原料から作るのは尊敬する」という賞賛と、苗木や種の入手ルートを尋ねる実務的な問い合わせが寄せられている。
- 現地のギリシャ人の間でも、庭で実る果樹やオリーブオイルへの関心は高く、食を通じた地域との接点が生まれている。
夫婦は薪で火を起こして調理する設えも整えており、クインさんは「薪の煙の匂いをかぐと、故郷がすぐ近くにあるように感じる」と語っている。味だけでなく、匂いや調理の所作まで含めて「故郷」を再構築しようとしている点が印象的だ。
海外移住を考える日本人への示唆
この話が日本の読者に響くのは、食文化の「根の強さ」と移住の現実の両方を映しているからだ。投資移住で時間を得ても、就労が制限されれば日々の充実は自分で設計するしかない。夫婦が選んだのは、消費ではなく生産だった。
そこから引き出せる教訓は3つある。第一に、移住先の気候は事前の想定とずれることがあり、「故郷の作物をそのまま持ち込む」発想は通用しにくい。第二に、それでも調味料という味の基盤は、原料を現地化してでも守る価値がある。第三に、食の自作は孤独な海外生活でコミュニティとの接点を生む装置にもなる。
ベトナムの食文化を知るうえでは、調味料だけでなく日々の副菜の組み立て方を理解すると解像度が上がる。家庭の食卓を構成するベトナムの副菜文化を押さえておくと、夫婦がなぜ魚醤の自給にここまでこだわるのかが腑に落ちる。魚醤はベトナム料理のほぼすべての副菜・タレの土台だからだ。
食ビジネスから見た「現地化」の波及
原料の現地化という発想は、個人の食卓を超えて食ビジネスにも通じる。海外でアジア食材の需要が伸びるなか、輸入に頼らず現地原料で「故郷の味」を再現する動きは、コストとサプライチェーンの両面で合理性を持つ。ギリシャ産の米でベトナムの米麺を打つ夫婦の工夫は、その縮図といえる。
ベトナム国内でも、伝統的な家庭の味を商品化・現代化する潮流は強まっている。ハノイの洋館を舞台にベトナム料理を再構成するNgonの取り組みや、家庭料理を看板に据えた家庭の味の専門店のように、「家の味」を価値として打ち出す事例が増えている。海外の越僑による自家製と、本国の商業化は、ベトナム食文化の根を別々の方向から太くしている。
実用情報:海外で「故郷の味」を再現するヒント
同じように海外で発酵調味料や故郷の食材を自作したい人に向けて、この夫婦の事例から拾える実用的なポイントを挙げる。
- 魚醤は現地の生魚と粗塩で代替できる。重要なのは魚と塩の比率と、長期発酵・天日熟成という工程を守ること。
- 果樹・野菜は故郷の品種にこだわらず、移住先の気候に合う品種から始めると失敗が少ない。寒冷地では熱帯果樹は越冬に注意。
- 米麺は現地産の米でも作れる。主食を自作できると、輸入が途絶えても食卓が成立する。
- 苗木や種は帰省時にまとめて入手するルートを確保しておくと、立ち上げが早い。
テッサロニキはギリシャ北部の港湾都市で、地中海性気候。同じ要領を試す場合も、住む土地の冬の寒さと夏の乾燥を前提に作物を選ぶのが現実的だ。
まとめ:味は持ち運べる、ただし作り直す覚悟が要る
チュック・クインさん夫婦の歩みは、「故郷の味は持ち運べるが、そのまま運ぶのではなく現地で作り直すもの」という事実を示している。投資移住で得た時間を、消費ではなく食の自給に充てた選択が、孤独な異国の暮らしに芯を通した。
海外移住や長期滞在を考えるなら、まずは故郷の味の「土台になる調味料」を一つ選び、現地原料で再現できるか試してみるとよい。ベトナムであれば魚醤、日本であれば味噌や醤油がその候補になる。原料の現地化を起点に考えると、食文化を持ち運ぶ現実的な道筋が見えてくる。ベトナムの食をより深く知りたい人は、現地の食卓を構成する要素から少しずつ手元で再現してみてほしい。
