マンハッタンの裏庭で、鉄板にのった1皿28ドル(約4,300円)のバインミー・チャオに行列ができている。舞台はチャイナタウンの端、フォーサイス通り72番地の「Phe(フェー)」。サイゴンの家庭では3〜6万ドン(約180〜350円)で食べる労働者の朝食が、海を渡ると十数倍の値札に変わった。この価格差は、ベトナム移民の商いと、ベトナム食が海外で「体験」として売られ始めた流れを同時に映し出す。日本の食卓や旅の予定にも無縁ではない。
マンハッタンの裏庭で週末だけ、Pheの鉄板バインミーが1皿28ドル
Pheはベトナム料理店「Mắm(マム)」の姉妹店で、隣り合う小さな一角にある。平日はバインミーとコーヒーが中心だが、週末の昼だけメニューにバインミー・チャオが並ぶ。裏庭にプラスチックの丸椅子とテーブルを出し、調理場のすぐ横で食べさせる作りだ。予約は取らず、歩いてきた客から順に案内する。
皿の中身は、自家製バゲットと、パテ・ソーセージ・牛肉・卵・チーズを入れた鉄板ひとつ。ピクルス、パテ、卵黄と植物油で作るベトナム風アイオリはおかわり自由だという。米メディア The Infatuation は同店のバゲットを高く評価し、皮はパリッと硬く中の生地はごく薄い、という独特の焼き上がりを紹介している。看板料理のバインミーそのものより、この週末限定の鉄板が話題を集めている。
バインミー・チャオは「フライパンのパン」——ホアマーが1958年から続けるサイゴンの朝食
そもそもバインミー・チャオ(bánh mì chảo、chảo=フライパン)は、サンドイッチのバインミーとは別物だ。パンに具を挟むのではなく、目玉焼き・レバーパテ・ベトナムソーセージ・チャールア(練り物)・薄切り牛肉などを鉄板の上でトマトソースごと熱し、客がバゲットを手でちぎってソースに浸して食べる。フランス統治期に持ち込まれたパンと卵料理が土着化した、いわば「サイゴン版の朝定食」である。牛肉を主役にした兄弟分は「ボー・ネー(bò né)」と呼ばれる。
この食べ方の代表格が、ホーチミン市3区で1958年から続く老舗「バインミー・ホアマー(Hòa Mã)」だ。朝の時間帯に地元客が鉄板を囲む光景は、サイゴンの日常そのものになっている。つまりPheがニューヨークで売っているのは、珍しい創作料理ではなく、ベトナムでは60年以上前から労働者の腹を満たしてきたごく普通の朝食だ。
本場3〜6万ドンと28ドルの差が示す、移民の起業とベトナム食のプレミアム化
まず数字を並べておく。いずれも概算で、為替は1USD≒155円・1円≒170ドンを目安にした。
| 場所 | 店の例 | 1皿の価格 | 円換算(概算) |
|---|---|---|---|
| ホーチミン市 | ホアマー等の街の食堂 | 3万〜6万ドン | 約180〜350円 |
| ニューヨーク | Phe(週末限定) | 28ドル | 約4,300円 |
本場の一般的な価格帯(3万〜6万ドン)に対し、ニューヨークの28ドルはおよそ十数倍から20倍にあたる。もちろん単純比較はできない。マンハッタンの家賃、米国の人件費、自家製バゲットの手間、そして「ベトナムの裏路地の空気ごと」提供するという付加価値が上乗せされている。原価だけでなく、その場の体験に値付けしているわけだ。
この一皿には二つの構造が透けて見える。ひとつは移民の起業だ。ベトナム系の店主が本国の日常食を持ち込み、現地の外食相場に合わせて商品化する。安さを競うのではなく、真正さ(本場らしさ)を売りにして高価格帯で成立させている。もうひとつはベトナム食全体のプレミアム化だ。かつて「安くて量が多い」で語られたフォーやバインミーは、海外では洗練された一皿として単価を上げつつある。ラダック(インド)の山あいでフォー1杯が1,480円で供されるというヒマラヤの麓のベトナム食堂の事例も、立地こそ違えど「本場から遠いほど価格が上がる」という同じ力学の上にある。
作り手のブランドが海を渡る動きも重なる。ベトナム発のピザチェーンがニューヨークのブルックリンに、チョコレートのMarouがチャンギ空港に店を構えるといったベトナム食ブランドの海外進出と、Pheのような個人店の高価格化は、方向は違っても「ベトナム食は安いもの」という前提が崩れつつある点で地続きだ。
SNSでは「屋台の空気ごと」に賛否、価格差への戸惑いも
ニューヨークの反応は割れている。ベトナムを知る客からは、裏庭の丸椅子や鉄板の音まで含めて「本国の食堂の雰囲気をそのまま持ってきた」と歓迎する声が上がる。一方で、本国では朝食一回分の何倍もの値段になることに戸惑う書き込みも目立つ。在住ベトナム人にとっては、味そのものより「あの空気に会える場所」であることに価値がある、という受け止めもある。
興味深いのは、この価格差が炎上ではなく話題として消費されていることだ。以前ハノイ旧市街の値段つきで巡るホイアンのバインミー名店のように、本場では数十円〜数百円で名店の味を体験できる。その「本場の安さ」を知っている人ほど、ニューヨークの28ドルを面白がる。安さと高さの落差そのものが、料理の物語になっている。
日本人が本場の鉄板バインミーに出会うなら、まずサイゴンのホアマー
では日本の読者はどう味わえばいいか。もっとも確実なのは、ホーチミン旅行の朝にホアマーのような街の食堂へ行くことだ。バインミー・チャオやボー・ネーは朝食メニューなので、午前中の早い時間が狙い目になる。予算は飲み物込みでも数百円で収まり、ニューヨークの28ドルとの差を身体で実感できる。鉄板は熱いうちにバゲットを浸すのがコツで、卵は半熟のまま崩してソースに絡める。
日本国内では、バインミーの専門店は都市部で増えたものの、鉄板で供するバインミー・チャオやボー・ネーを出す店はまだ多くない。フォーやサンドイッチ型のバインミーが中心で、朝定食スタイルの鉄板料理は希少だ。裏を返せば、ベトナム食堂を営む事業者にとっては差別化の余地が残っている領域でもある。目玉焼きとパテとバゲットという素材はどれも身近で、朝食業態やブランチ需要とも相性がいい。ニューヨークの28ドルが示したのは、素朴な一皿でも「体験」として設計すれば単価を引き上げられるという事実だ。
