午後1時に閉まる、サイゴンの「変わったカオラウ店」
ホーチミン市3区ドーティーロイ通りに、開店から午後1時で店じまいする小さな麺店がある。出すのはカオラウとミークアンの2種類だけ。店主は元警備員の教官で、いまも警備員養成の仕事と二足のわらじを履きながら、6年間たった一人で厨房に立ち続けている。1日に売るのは「ちょうど数十杯」と決め、それを超えたら売らない。スタッフは雇わない。理由は「妥協したくないから」。
ベトナム中部の名物カオラウは、ホイアンの古井戸の水でしか本来の味が出ないとまで言われる料理だ。その味を故郷から800km離れたサイゴンで再現する一人店の話は、本場の味を探す旅行者にも、品質と効率のあいだで揺れる飲食事業者にも示唆がある。地元紙Thanh Nienが報じたこの店を起点に、カオラウという料理そのものと、一人経営という選択の意味を掘り下げる。
元警備教官がクアンナムの味をサイゴンで
店主の名はTran Le Anh Vu氏。出身はクアンナム省(現在は行政再編でダナン側に組み入れられた地域)で、ホーチミン市での暮らしは26年を超える。地元紙によれば、彼はもともと警備員を養成する仕事に就いており、6年前にこの店を開いた後も、その仕事を続けながら店を切り盛りしている。
開放型のカウンター厨房に立つVu氏は、客と会話しながら一人で注文をさばく。待たせないために手を止めない。値段は1杯40,000ドン(1円≒170ドンで約235円)で、6年間据え置いている。4年通う常連のリンさんは「サイゴンのほかのどこでも出会えない味。とても満足できる」と語る。地元紙の記事には、彼の店が「サイゴンで最も変わったホイアンのカオラウ店」と紹介されている。
注目すべきは、彼が料理人としての修業を積んだプロではなかった点だ。故郷の味を独学で詰め、自分の基準に合うカオラウを出すことに「この仕事における倫理」という言葉を使う。人に任せれば自分の納得が崩れる。だから雇わない、というのが彼の論理だ。
そもそもカオラウとは何か
日本ではフォーやブンに比べて知名度が低いが、カオラウはベトナム中部ホイアンを代表する麺料理だ。フォーがたっぷりの澄んだスープに浮かぶのに対し、カオラウはスープというより、濃く煮詰めたタレを2、3さじまわしかける「汁少なめ」の麺である。同じ中部のミークアンとも別物で、ミークアンが豚骨ベースの軽い黄色いだしを少量使うのに対し、カオラウは焼豚(チャーシュー)のマリネ液を煮詰めた濃厚なタレが核になる。
最大の特徴は麺だ。米を灰汁(あく)に浸してから作るため、麺はうどんのように太く、コシが強く、灰色がかった黄色をしている。地元の言い伝えでは、その灰はチャム島周辺の特定の植物を焼いて作るべきとされ、米を浸し麺を茹でる水は、ホイアン旧市街にあるバーレー井戸の水を使うべきだとされてきた。
これは単なるロマンではない。バーレー井戸はトゥボン川デルタの扇状地の上にあり、湧き出る水は雨水よりアルミニウム塩やカルシウム塩の溶け込みが多い。このミネラル分が灰汁によるアルカリ処理をうまく働かせる。つまり「ホイアンの水でしか本物は作れない」という言い伝えには、地質的な裏づけがある。だからこそ、産地を離れたサイゴンで本場の味を出すという挑戦には独特の重みがある。
| 項目 | カオラウ | ミークアン | フォー |
|---|---|---|---|
| 汁の量 | 濃いタレを少量 | 黄色いだしを少量 | 澄んだスープがたっぷり |
| 麺 | 灰汁処理で太くコシが強い | 平打ちの米麺 | 細い米麺 |
| 味の核 | 焼豚のマリネを煮詰めたタレ | 豚骨の軽いだし | 牛または鶏の出汁 |
| 主な産地 | ホイアン | クアンナム一帯 | 北部(ハノイ)が起源 |
「数十杯で閉店」という選択が意味するもの
1日数十杯、午後1時で店じまい。経営効率だけ見れば理解しがたい設計だ。だが、これは彼なりの品質保証の仕組みでもある。一人で目の届く量しか作らないからこそ、麺の食感もタレの煮詰め具合も自分の基準を外さない。規模を追えば、灰汁麺の繊細さや濃縮タレの加減は必ずどこかで崩れる。Vu氏が「雇わない」と決めているのは、頑固さというより、料理の再現性を担保する判断に近い。
飲食事業者の視点で見ると、ここには二つの戦略が同居している。一つは希少性の演出だ。「売り切れたら終わり」という制約が、常連を呼び戻し、開店直後に客を集める。もう一つは、属人性をあえて武器にする設計だ。マニュアル化して横展開する飲食チェーンとは正反対に、店主その人が味の保証書になっている。スケールしないことが、そのままブランドになっている。
本場ホイアンの味を旅で探すという楽しみ方
カオラウの面白さは、産地と切り離せない点にある。ホイアンを訪れるなら、旧市街の老舗でバーレー井戸の水を使った一杯を味わうのが王道だ。連泊してじっくり食べ歩くなら、ホイアンでの滞在の楽しみ方をまとめたホイアンの連泊滞在ガイドが参考になる。古い町並みと食をセットで味わうのが、この料理に合った旅の形だ。
一方で、サイゴンや日本で本場の味に近づこうとする動きも広がっている。中部の味だけでなく、ベトナム各地の家庭料理を一皿ずつ丁寧に出す店も増えており、家庭料理を軸にした一人運営の店のように、規模より作り手の手仕事で勝負する例は珍しくない。ベトナム料理は主役の麺やごはんだけでなく、添えられる副菜やハーブの組み合わせまで含めて味が完成する。カオラウの生野菜や揚げ麺のトッピングも、そうした「組み合わせの妙」の一部だと考えると、一杯の奥行きが見えてくる。
実用情報
- 店の場所:ホーチミン市3区ドーティーロイ通り(ニェウロック地区)
- 営業:朝から午後1時まで。1日数十杯で完売したら終了のため、訪れるなら午前中が確実
- メニュー:カオラウとミークアンの2種類。価格は1杯40,000ドン(約235円、1円≒170ドン換算)
- 本場で食べるなら:ホイアン旧市街の老舗。バーレー井戸の水と灰汁麺が本来の食感を生む
まとめ
サイゴンの一人カオラウ店が伝えるのは、「規模を追わない」という選択が品質と希少性の両方を生むという事実だ。本場ホイアンに行くなら旧市街の老舗で井戸水仕込みの一杯を、ホーチミン市にいるなら午前中のうちにこの店を訪ねるのが、カオラウとの正しい出会い方になる。日本でベトナム中部の味を扱おうと考える飲食関係者にとっても、作り手の手仕事をそのままブランドにするこの店の在り方は、効率一辺倒ではない一つの解として検討に値する。
