メコンデルタの中心都市カントーで、13歳の少年が炭火の前に立ち、次々とバインセオを焼き上げている。少年の名はグエン・ホアン・デー。母のレ・ティ・トゥイ・ハン(37)と二人で、市内トイロン坊の小さな店を切り盛りする。カントーへ足を運ぶ旅行者にとって、水上マーケットや夜市の合間に立ち寄れる、その土地の暮らしがそのまま出てくる一皿だ。
1枚13,000ドン(1円=約170ドンの概算で76円ほど)。エビと豚肉、そして摘みたての青菜を添えた素朴な味が、地元客の朝を支えている。
母を見て自分から覚えた、教わらない手仕事
デー少年がバインセオを焼くようになったきっかけは、誰かに命じられたからではない。母のハンさんによれば、手ほどきをしていないのにいつの間にか焼けるようになっていたという。「教えていないのに焼き方を覚えていて驚いた」と母は振り返る。母親が働きづめなのを見て、放っておけずに鍋の前に立った。
その手つきは年齢に見合わない。少年は火加減をこう言葉にする。「おいしく焼くには油が熱くなった瞬間を見計らって流し込む。鍋が十分に熱くないとカリッとしない」。焼き上がった一枚を見れば、どの鍋で焼いたかまで見分けがつくと言う。炭火で焼くと見た目からして違う、という感覚も、日々の反復から自分でつかんだものだ。
収入10万ドンの日雇いから、店が家族の支えに
母子が店を開いたのは2019年。それ以前、田畑を持たないハン夫婦は一年じゅう他人の田で日雇い仕事に出ていた。朝から日が暮れるまで泥にまみれ、雨風にさらされて、それでも手にする日銭は100,000ドン(約590円)ほどだったという。バインセオの店は、その暮らしを変えた文字どおりの命綱になった。
いまは1日に粉を2〜4キロ使い切り、利益は300,000〜500,000ドン(約1,800〜2,900円)。朝9時に火を入れると、昼から午後の早い時間には売り切れる。数字だけを見れば小さな商いだが、田で日雇いをしていた頃と比べれば、家族が自分たちの手で立てられる暮らしがそこにある。
安くて野菜たっぷり、地元客がつける高得点
店の評判は近隣の常連が支えている。74歳の客、チャン・キム・ソンさんは「ここのバインセオは口によく合う。野菜が多くて安いのに、店も清潔だ。あの子は愛想がよくて、腕もいい」と話す。43歳のディン・バン・ヴォンさんはためらいなく「9.5点」と採点した。
13,000ドンの一枚には、エビと豚肉、そして山盛りの生野菜がつく。野菜はラーカックやバンランといった地元の葉を摘んで使う。手に入る土地のものを、その日に出す。派手さはないが、旅行者がベトナムの路地で探している「地元の人が普段食べているもの」が、この一皿には詰まっている。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 店の場所 | カントー市トイロン坊 |
| バインセオ1枚 | 13,000ドン(約76円) |
| 1日の粉の使用量 | 2〜4キロ |
| 1日の利益 | 30万〜50万ドン(約1,800〜2,900円) |
| 営業 | 朝9時〜売り切れ次第(昼〜午後早め) |
| 開業 | 2019年 |
為替は1円=約170ドンで概算。相場変動により実際の円換算額は前後する。
そもそもバインセオとは何か
バインセオは米粉にターメリックと水、ときにココナッツミルクを混ぜた生地を薄く焼き、エビや豚肉、もやしを包んだ南部の名物だ。「セオ」は生地を熱した鍋に流し込むときの「ジュー」という音を表す。焼きたてを一口大にちぎり、香草と青菜で巻いてヌクチャム(甘酸っぱい魚醤だれ)につけて食べる。南部のものは大ぶりで、パリッと焼けた縁と、包んだ野菜のみずみずしさの対比が身上だ。
同じバインセオでも、焼き手と土地で表情が変わる。中部ダナンの海辺の屋台村では、外国人客がバインセオとネムルイ(串焼き肉)を求めて行列を作っている(ダナンの屋台村の記事参照)。カントーの母子の店が出すのは、そうした観光地仕様とは別の、日々の食卓に近い一枚である。
水上マーケットと合わせて回るカントー
カントーはメコンデルタ観光の拠点で、旅行者の多くは早朝のカイラン水上マーケットを目当てに訪れる。夜明け前に小舟が集まり、船の上で果物や麺、コーヒーが売り買いされる光景は、この地方ならではの朝の顔だ。市内では食のフェスティバルも開かれ、夜市と朝の水上市場を一泊で回る楽しみ方が根づいている(カントーの食フェスの記事)。
水上マーケットを見た後、船を降りて路地の屋台で朝食を取る。デー少年の店のような場所は、そうした動線の途中にある。メコンの朝は、島めぐりの小舟が2時間待ちになるほど混む日もある(メコンの舟旅の記事)。定番の水景を押さえたうえで、地元の人が並ぶ小さな店に足を伸ばすと、この土地の輪郭がぐっと近くなる。
個人の屋台が、旅の目的地になる
ベトナムでは、一軒の屋台や一人の作り手が旅の理由になることが増えている。SNSで評判が広がり、料理そのものよりも「誰がどう作っているか」に人が集まる。カントーの母子の店も、豪華な内装や観光向けのメニューがあるわけではない。あるのは、13歳が炭火の前に立ち、母を助けながら一枚ずつ焼いているという事実だけだ。それが、値段や味の評価とは別のところで、店に足を運ぶ理由になっている。
カントーを旅程に入れるなら、水上マーケットとナイトマーケットを軸にしつつ、朝のうちに地元の路地でバインセオを一枚食べてみてほしい。1枚76円ほどの朝食が、この街の暮らしの手触りを一番早く教えてくれる。売り切れ御免の店だから、狙うなら午前中が確実だ。
