寿司から出汁へ、ベトナム・サイゴンで進む和食観の更新

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2026年6月17日、ホーチミン市で日本貿易振興機構(JETRO)ホーチミン事務所と在ホーチミン日本国総領事館が、和食の実演をともなう食文化イベントを開いた。総領事館の料理長や、ベトナムにおける和食の親善大使、そして総領事自身が壇上に立ち、出汁や旬、おもてなしといった「料理の奥にある考え方」を紹介する場になった。寿司や刺身のイメージが先行してきたベトナムで、和食の受け止め方がいま静かに更新されつつある——その現場を、ベトナムを旅する日本人読者の視点から読み解いてみたい。

目次

サイゴンで開かれた一夜が示したもの

イベントを主催したのは、日本の貿易・投資を後押しするJETROのホーチミン事務所と、在ホーチミン日本国総領事館。両者が組んで和食をテーマに据えた背景には、料理を入り口に日越の相互理解を深めたいという狙いがある。在ホーチミン日本国総領事の小野マスオ氏は、この日の趣旨を「飲食を通じて相互理解を深め、友好を強め、両国の協力をさらに前進させたい」と語っている。

実演に立ったのは、総領事館の料理長を務めるシュトウ氏。和牛のステーキを焼きながら、昆布という素材が和食の土台になっていることを説明し、料理に通底する考え方を「日本料理の核心にある、調和の精神を映している」と表現した。会場では、味噌・柚子・レモングラスを合わせたソースを添えた白身魚のソテーや、サーモン・マグロの寿司、和牛などが供され、うまみ、季節への敬意、そしておもてなし(オモテナシ)という言葉が繰り返し語られた。和食は2013年にユネスコの無形文化遺産に登録されており、この日のテーブルは「料理」というより「文化の説明会」に近い性格を帯びていた。

「寿司の国」から「出汁の国」へ——何が新しいのか

ベトナム、とりわけホーチミンとハノイの和食人気は、もはやブームという段階を越えて生活に溶け込んでいる。レタントン通り一帯が「リトルトーキョー」と呼ばれ、ファンヴェットチャイン通りが第二の日本人街として育ってきたことは、現地で暮らす駐在員や旅行者ならよく知るところだろう。そこにはカジュアルな定食屋から、おまかせコースを出す高級店までが軒を連ねる。

今回のイベントで興味深いのは、語られた内容が「もっと和食を食べよう」という消費喚起ではなく、「和食をどう味わうか」という解釈の更新だった点だ。ベトナムにおける日本料理親善大使(グッドウィル大使)で、日本で10年以上学び働いた経験を持つグエン・バ・フオック氏は、こう述べている。「かつて多くの人は、日本料理といえば主に寿司や刺身を思い浮かべていた。いまは出汁、おまかせ、懐石、そして季節の食材への関心が高まっている」。さらに同氏は「これは、より多くのベトナムの消費者が、日本料理を単なる食事の選択肢ではなく、文化的な体験として捉えはじめていることを示している」と続けた。

この発言は、軽く読み飛ばせない。寿司は「見て分かりやすい料理」だ。ネタが乗っている、形がある、写真に映える。一方で出汁や懐石は「見えにくい料理」である。一杯の澄まし汁のうまみや、一品の中に旬を忍ばせる構成は、説明されなければ気づきにくい。その「見えにくさ」に対してベトナムの食べ手が関心を向けはじめたという事実は、市場が成熟したことの何よりの証拠だと言える。

数字で見るベトナムの和食店

関心の高まりは、店の数にも表れている。レストラン情報サービスFoodyが集計し報じられた2024年時点のデータによると、ベトナム主要都市の日本食店数は次の通りだ。

  • ホーチミン市:944店
  • ハノイ:472店
  • ダナン:111店
  • ニャチャン:42店

ホーチミンの944店という数字は、ハノイのほぼ2倍にあたる。沿岸のリゾート地ダナンやニャチャンにも三桁・二桁の店があることを踏まえると、和食は大都市の駐在員向けという枠を越えて、観光地の食の選択肢にまで広がっていることが読み取れる。なお、この集計はFoodyによるもので、登録ベースの店舗数である点は割り引いて見る必要がある。それでも、ホーチミン一都市で千店に迫る規模感は、和食がこの街の外食文化の一翼を担っていることを十分に物語っている。

現地・業界の声

今回のイベントと、その背景にあるベトナムの和食シーンからは、いくつかの異なる立場の声が重なって聞こえてくる。

第一に、外交の現場から。総領事の小野氏が食を「相互理解の手段」と位置づけたことは、和食がもはや単なる輸出産品ではなく、日越関係を編む糸として扱われていることを示す。料理が外交テーブルに上がるとき、それは文化として認められた証でもある。

第二に、料理人の立場から。料理長のシュトウ氏が和牛を焼きながら昆布を語ったように、作り手は「派手な一皿」ではなく「土台の素材」に光を当てた。寿司の鮮度ではなく、出汁の奥行きを伝えようとする姿勢は、ベトナムの食べ手の関心の変化と呼応している。

第三に、橋渡し役の立場から。日本で長く修業したフオック氏のような人物が「親善大使」として現地と日本のあいだに立っていること自体が、ベトナムの和食受容が「輸入」から「翻訳・定着」の段階に入ったことを物語る。彼らは寿司を売るのではなく、和食の文法を現地の言葉で説明している。

日本人旅行者にとって、これが意味すること

ここからは少し踏み込んで考えたい。ベトナムで和食が「出汁・懐石・季節感」へと解釈を広げているという事実は、現地を訪れる日本人にとって何を意味するのだろうか。

ひとつは、「現地の和食を侮らない」という心構えだ。海外の日本食といえば、かつては「なんちゃって寿司」を半ば笑い話として語るのが定番だった。だがホーチミンのシーンはその段階をとうに過ぎ、おまかせや懐石の文脈を理解しようとする食べ手と作り手が育っている。旅先で和食店に入るとき、それを「日本の劣化コピー」と見るのではなく、「日本の食が現地でどう翻訳されたか」を観察する目を持つと、旅の解像度が一段上がる。

もうひとつは、和食が「ベトナムの食を映す鏡」になるという視点だ。ベトナム料理もまた、ヌクマムの発酵うまみや、ハーブで季節と土地を表現する点で、出汁や旬を重んじる和食と意外なほど近い感性を共有している。サイゴンの食卓で和食を口にしたあと、同じ街のベトナム家庭料理を味わうと、両者がうまみと季節という共通言語でつながっていることに気づくはずだ。和食を入り口に、現地の食をより深く理解する——そんな往復が、この街では自然にできてしまう。

日越の外食・食材輸出への波及

食文化のクロスオーバーは、テーブルの上だけの話では終わらない。ベトナムの食べ手が出汁や旬といった「素材の質」に目を向けはじめれば、求められる食材も変わってくる。昆布や鰹節、味噌、醤油といった、和食の土台をなす日本産食材の出番が増える可能性がある。寿司ネタの鮮魚を売る段階から、うまみの素となる乾物・調味料を売る段階へ——輸出のフェーズが一段進む地ならしが、こうしたイベントの積み重ねによって進んでいると見ることもできる。

外食産業の側でも、勝ち筋は「本格」と「現地化」の二極に分かれていくだろう。一方には、懐石やおまかせの文脈をていねいに伝える高価格帯の店。もう一方には、ベトナム人の味覚に寄り添ったフュージョン型の店。今回のイベントが押し出した「文化としての和食」は、前者の追い風になる。説明されることで価値が伝わる料理は、説明する場を持つほど強くなるからだ。日本の食関連企業にとって、ベトナムは「数で攻める市場」から「文脈で攻める市場」へと性格を変えつつある。

ベトナムで和食を楽しむための視点

最後に、実際にホーチミンなどで和食を楽しむときに役立つ見方を整理しておく。

  • 店のタイプを意識する:寿司・刺身が主役のカジュアル店と、おまかせ・懐石を掲げる高価格帯の店では、楽しみ方が異なる。後者は「一皿ごとの構成」を味わう料理なので、急がず順を追って食べたい。
  • 日本人街だけに頼らない:レタントン通り(リトルトーキョー)は安心感がある一方、ここ数年は他エリアにも実力店が広がっている。第二の日本人街として育つ通りなども含め、立地で決めつけないほうが良い出会いがある。
  • うまみと旬を手がかりにする:出汁や季節の食材を売りにする店は、和食の「見えにくい価値」を意識的に出している店だ。メニューに季節感や出汁への言及があるかは、店の姿勢を測る一つの目安になる。
  • ベトナム料理とセットで味わう:和食を食べた前後に現地の家庭料理を口にすると、うまみと季節という共通項が立ち上がってくる。一つの街で二つの食文化を往復できるのは、サイゴンならではの贅沢だ。

まとめ

2026年6月17日にホーチミンで開かれた和食イベントは、派手な新店オープンのニュースではない。けれど、寿司中心だったベトナムの和食観が出汁・懐石・季節感へと広がりつつあるという、静かで大きな変化を可視化した一夜だった。料理が外交の場に上がり、親善大使が和食の文法を語り、食べ手がそれを「文化的な体験」として受け止めはじめている。ベトナムを旅する日本人にとって、この街の和食は「日本の味の確認」ではなく、「日本の食が海を越えてどう咲いたか」を確かめる楽しみへと変わりつつある。サイゴンの食卓は、その変化を肌で感じられる最前線にある。

よくある質問

Q. ベトナムで和食はどれくらい人気なのですか?

A. 大都市を中心に定着しており、レストラン情報サービスFoodyが集計し報じられた2024年のデータでは、ホーチミン市だけで944店の日本食店があるとされます。ハノイ472店、ダナン111店、ニャチャン42店と、観光地にも広がっています(出典:Foody)。

Q. ベトナム人の和食のイメージは寿司だけですか?

A. かつては寿司や刺身のイメージが中心でしたが、ベトナムの日本料理親善大使グエン・バ・フオック氏によれば、いまは出汁・おまかせ・懐石・季節の食材への関心が高まっており、和食を「文化的な体験」として捉える人が増えているといいます。

Q. ホーチミンで本格的な和食を食べるならどこを探せばよいですか?

A. レタントン通り周辺は「リトルトーキョー」と呼ばれ和食店が集まりますが、ここ数年は他エリアにも実力店が増えています。おまかせや懐石を掲げる店、出汁や旬を前面に出す店を選ぶと、和食の奥行きを味わいやすくなります。

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この記事を書いた人

ベトナム・ホーチミン在住3年目|旅行で来るだけでは知ることができない、現地にいるからこそわかるローカル情報を中心に発信していければと思いベトナム旅行の専門情報サイトを立ち上げました。

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