ハノイのバーディン区ゴックハー通り110Bにある「Hồng Ngọc Fine Art」という店の、入口近くのカウンターの裏に、全長15mを超える漆の作品が21枚つなぎで掛かっている。描かれているのは1850年ごろの旧市街、いわゆる「ハノイ36通り」。作者はグエン・テー・カン(Nguyễn Thế Khang)、制作に8年、投じた費用は3億ドン。2000年のタンロン・ハノイ990年祭で一度公開されたあと行方が追えなくなり、2026年10月4日にSaigoneerが掲載した記事で、所在が土産物と並ぶ店の壁だったことが明らかになった。見つけたのは、1970年代末から80年代にノルウェーでベトナム難民に教えていたオラフ・フスビー(Olaf Husby)と、ハノイ在住のクリエイティブディレクター、チン・ラン・フーン(Trịnh Lan Hương)。ハノイ旧市街を歩く機会のある人にとっては、ガイドブックに載らない一次資料が、拍子抜けするほど日常的な場所にあるという話になる。
15mの漆絵は土産物の棚のすぐ横に掛かっていた
フスビーが1996年にカンの自宅(トリエウ・ベト・ブオン通り47番地)を訪ねたとき、カンは74歳だった。テーブルに広げられたのは、1850年前後のハノイ旧市街をまるごと再現するという下絵。フランス統治が始まる前の街並みを、漆の大作にする構想だった。
計画では16枚の大型パネルで1.70×10.08m、額装すると22平方メートルを超える。周囲には歴史的な出来事やハノイの文化を示す装飾帯を回し、漢字とノム字(Chữ Nôm)の銘文も入れる。フスビーは資金探しを頼まれ、ノルウェーに戻って動いたが、最終的に支援は実現しなかった。カンは2001年、ハノイ市側の購入判断を待つあいだに腎不全で亡くなる。
ここから約30年が飛ぶ。フスビーはベトナム再訪の準備中に作品の行方を思い出し、2026年の旅でハノイに入った。旧市街チャンカム通りのホテルに泊まり、徒歩30分のトリエウ・ベト・ブオン通り47番地へ。そこは静かな中庭になっていて、隣に小さなカフェがあった。アイスコーヒーを運んできた若い従業員に、カンの名と「旧市街36通りの絵」と書いた紙と簡単な図を見せると、彼女はGoogle翻訳を開いて「待って」の一語を示した。戻ってきた彼女が近所の住人から聞き出したのは、カンに息子がいるという事実と、その名前――グエン・テー・ズイ(Nguyễn Thế Duy)だけだった。
そこから先はチン・ラン・フーンが引き継ぐ。ズイに連絡がつき、自宅を訪ねると、父のサインが入った漆絵が壁に並んでいた。ズイは自身も画家で作曲家でもあり、ハノイの街並みを描き続けている。彼が開いたウェブサイトに、21枚の全体像が表示された。そして原作の所在も即答で返ってきた。バーディン区ゴックハー通り110B、Hồng Ngọc Fine Art。
記事によれば、店内には刺繍、衣類、彫刻、金、銀、宝石が並び、作品は入口近く、ごく普通の土産物のすぐ横の長い壁にあった。掲示には「ベトナム最大の漆工芸作品」とあり、題は『36 Streets of Thang Long Hanoi in the 19th Century』。ただし手前に幅の広いカウンターがあって全体を引いて見ることができず、艶のある漆面には店内の照明と商品が映り込む。ノム字部分の翻訳を含む補足資料は置かれているという。
1850年を描くために、ハンダオ通りの120軒を25軒に削った
この作品が記録として重いのは、調べ直しの量が尋常でない点にある。カンは1850年前後のハノイについて何年も資料を当たった。ハンバック、ハンダオ、ハンボンといった通りの道具や職人の手順は、すでに生きた記憶から消えていた。建築、服装、日々の暮らしの情報も断片しか残っていない。
そのうえで実際に描けた量には限界があった。ハンダオ通りにはかつて120軒が建っていたが、カンの再現図では25軒しか収まらなかった。15m超という寸法は、誇示のためではなく縮約の結果だったことになる。
カンの歴史の素養は、ハノイで最古級の私学タンロン私立学校での勉強に由来する。歴史を教わった相手が、のちに北ベトナム軍の総司令官となるヴォー・グエン・ザップだった。卒業後もハノイについて書かれたベトナム語・フランス語の古い文献を読み続けている。美術の学位は持たず、自分の作風を「新古典主義」と説明していた。郵政勤めを1980年に58歳で退いてから本格的に制作を始め、1979年の中越戦争前後に高まった民族意識をきっかけに、中国書法の模写から離れてベトナムの民俗行事の描写へ向かっている。
技法の呼び方には注意が必要だ。Saigoneerは「sơn mài」と書いているが、2001年のベトナム語報道はいずれも「tranh sơn khắc」と呼んでいる。黒漆を何層も重ね、乾いてから文様を彫り込み、彩色・金箔・螺鈿を入れるという工程は、研ぎ出して磨き上げる sơn mài ではなく、彫る側の sơn khắc にあたる。後述する「工芸品か作品か」という審査の論点は、この呼び分けと地続きだ。
構想段階の数字と完成後の数字が合っていない
ここは丁寧に分けたい。1996年にフスビーが聞いた構想値と、2001年に息子ズイが語った完成後の推計値は、同じ作品について別の数字を出している。
| 項目 | 1996年の構想(フスビーの記録) | 完成後(2001年の報道) |
|---|---|---|
| パネル枚数 | 16枚 | 21枚(両端2枚は銘文、残り19枚が街並み) |
| 寸法 | 本体1.70×10.08m/額装で22平方メートル超 | 全長15m超 |
| 建物の数 | 約400軒 | 数千軒(息子による推計) |
| 人物の数 | 約2,000人 | 約4,000人(息子による推計) |
| 描かれる範囲 | 1850年ごろの36通り | ハンタンからハンカイ、紅河からハンガイ・ハンクアットまで |
どちらかが嘘という話ではなく、16枚から21枚に増えた過程で画面が広がったとみるのが素直だろう。ただし「約2,000人」という数字が独り歩きすると、完成作の密度を半分に見積もることになる。制作期間「8年」の起点も資料間で揃っていない。ズイは父が1983年にハノイの彫り漆を作ると決めたと述べ、フスビーは1996年10月に着手すると本人から聞いている。2000年の公開までに8年なら着手は1992〜93年あたりで、1996年は構想の練り直しの最終段階だったと読むのが整合的だ。
金額のほうも整理しておく。以下は1円=163.4ドン換算(2026年10月10日時点)。2001年当時の名目額を現在のレートで割り戻した数字で、当時の物価水準をそのまま表すものではない。
| 金額 | ドン/ドル | 円換算の目安 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 制作費 | 3億ドン | 約184万円 | 8年間の実投資額(2001年報道) |
| 当初の提示額 | 12億ドン | 約734万円 | 制作費の4倍として算定 |
| 実際の提示額 | 6億ドン | 約367万円 | 買い手が市の側と分かり半額に |
| 美術局側の提案額 | 4〜5億ドン | 約245〜306万円 | 審査過程で示された買取水準 |
| 市からの創作支援 | 2,500万ドン | 約14.7万円 | 千年タンロン関連の支援枠から |
| 1996年の資金要請 | 7万8,200ドル | ― | 完成費・助手2名の賃金・展示設備・広報・図録1,000部 |
審査委員会は「工芸品か作品か」で割れた
2000年、作品はタンロン・ハノイ990年祭に合わせてチャンティエン通り45番地の展示館で公開された。市が購入すべきかを判断するため、ハノイ市文化情報局、美術局、ベトナム美術協会、ハノイ美術協会からなる審査委員会が設けられた。ところが2001年2月15日、無償掲出の期限切れと他の展示への場所譲りを理由に作品は撤去される。15mを掛けられる壁がないカンの自宅に運び込まれ、積んで保管するしかなかった。
審査委員会の議論は当時の報道に残っている。委員長を務めたハノイ市文化情報局長のグエン・ヴィエット・チュックは、専門家の側から芸術的価値と使用価値を見直すべきだという声が少なくないとし、彫り漆という種類だけに複製が作れるのではないか、工芸品として扱うべきではないか、独学の作者の技量をどう見るか、という論点が出ていたことを明かしている。市が出した創作支援は2,500万ドン(約15.3万円)で、チュック自身、これについて「あれだけの絵に対してけちすぎる、本来は後ろにゼロを2つ足すべきだ」と周囲から言われたと述べている。
美術局長のゴー・クアン・ナムは別の立場をとった。自分はこれを工芸品とは考えていない、仮に工芸品だとしても芸術的・歴史的な価値があるなら本物の作品に劣らない、しかもこれは一点物で、若い世代の画家は歴史の知識が深くないため後から金と労力を投じても同じものは作りにくい、として、作者に4〜5億ドンを支払うよう審査委員会に進言したと語っている。
カン本人の受け答えも残っている。当初12億ドンで売るはずだったが買い手が市の側だと知って半額にしたこと、6億ドンでも折り合わないなら「これ以上は難しい、十分安くしたつもりだ」と答えたこと、必要なら国外を含めて相手を変えるしかないと認めたこと。その間、彼は週2回の人工透析を受け、月およそ500万ドン(約3.1万円)の治療費を負担していた。息子ズイは父の死後、父が気にしていたのは絵が売れないことではなく、8年を注いだ価値を審査委員会が認めるか否かが分からないままだったことだと語っている。
ハノイの工芸が「工芸」として扱われるときに値段がどう付くのかは、いまも続く話だ。職人と若手デザイナーを同じ会場に並べたハノイの工芸展NGHEのような試みは、この線引きを動かそうとする側の動きとして読める。
資金の出どころに日本大使館が出てくる
日本の読者にとっていちばん効くのはこの一点だ。ズイの説明によれば、カンは大作の前に旧市街を描いた4枚組の小さな作品を作り、それを日本大使館が購入してロビーに掛けた。その代金があったからこそ、父は全力を大作に注ぎ込めた。ノルウェー側の公的支援は最後まで降りず、15mの記録を成立させた元手の一部は、在ハノイの日本大使館による一枚の買い物だったことになる。
この件で起きたことを順に見ると、分類の判定が買取の前提に置かれ、判定が割れたまま買取も決まらなかった。そして実際に受け皿になったのは、在外公館と個人の愛好家だった。カンの死後に大作を手に入れたのも、長年この作品を好んでいた愛好家だった。記事によると、彼はカンの未亡人を説得して買い取り、自分の店に掛けた。その後、個人的な事情が重なって店も手放し、ハノイも離れている。著者たちは現在の所有者に接触を試みたが、連絡はつかなかった。
ハノイで工芸品や絵を買う側の実務にも落ちる。来歴(誰が作り、誰が持っていたか)と、作品を説明する資料が付くかどうかで、同じ品物の意味が変わる。カンが図録1,000部の印刷費まで資金要請に含めていたのは、作品単体では意味が伝わらないと分かっていたからだ。ホーチミン市が観光局として新しい土産の公募に賞金を出した土産コンテストの事例と並べると、作り手の記録を誰が引き受けるのかという問題が共通して残っていることが見えてくる。
15mを掛けられる壁が、ハノイにはまだ足りない
2001年の時点で、作品を買わない理由として繰り返し挙がったのは価格でも作風でもなく寸法だった。常設で展示できる適当な場所がない。政府側の担当者は作品が過去の空気を再現する力を評価しながら、大きさが深刻な障害であることを認めている。25年経って、この作品は結局「幅の広いカウンターの奥」に落ち着いた。壁は確保されたが、引いて全体を見る距離は確保されていない。
これは一作品の不運というより、ハノイが抱える展示空間の総量の問題だ。遺産を観光資源として押し出す施策は増えており、10日間規模のフェスティバル・タンロン2026のように街ごと祭にする方向には予算が流れる。一方で、横15mの一点物を常時掛けておく壁は、祭では増えない。
検索で追える範囲では、2001年の2本の報道以降、この作品についてまとまったベトナム語の続報が見当たらない。息子のギャラリーサイト(oldstreetgallery.com)については、Saigoneerの取材時点では同サイトで21枚の全体像が表示されたと書かれているが、2026年10月時点で確認できる公開ページは彼自身の作品の記録が中心で、父の21枚組には行き当たらない。Saigoneerの記事は、作品がデジタルで細部まで見られる場所と、きちんとした美術書が作られることを望むと書いて終わっている。
ゴックハー通りに行く前に押さえておくこと
見に行こうと思った場合の手がかりを、起点記事と2001年の報道、および公開情報で確認できる範囲でまとめる。営業時間や観覧の可否は現地で確かめる前提にしてほしい。
| 場所 | 住所 | 何があるか |
|---|---|---|
| Hồng Ngọc Fine Art | 110B Ngọc Hà, Ba Đình, ハノイ | 21枚組の原作。入口近くの長い壁、カウンターの奥。ノム字の翻訳を含む資料あり |
| 旧カン邸 | 47 Triệu Việt Vương, ハノイ | 静かな中庭。隣にカフェ。作品はここにはない |
| チャンティエン通り45番地の展示館 | 45 Tràng Tiền, ハノイ | 2000年の990年祭で公開された会場 |
| Old Street Gallery | oldstreetgallery.com(ハノイ) | 息子グエン・テー・ズイの作品アーカイブ。問い合わせはサイト記載のメール |
| ベトナム美術博物館(Bảo tàng Mỹ thuật Việt Nam) | 66 Nguyễn Thái Học, Ba Đình, ハノイ | 漆の作品をまとまった形で見られる。入館料は大人4万ドン(約245円)前後、開館は8:30〜17:00で月曜休館と旅行媒体の記載が一致(公式サイトは未確認のため現地で要確認) |
動き方の目安を挙げる。
- 原作があるゴックハー通りは、旧市街のホアンキエム湖側ではなくバーディン区。旧市街から歩く距離ではないので配車アプリを使う
- 店舗なので、混み合う時間を避け、店員に用件を伝えてから近づくほうが無理がない
- 漆面は照明と商品を映り込ませる。斜めから、カウンター越しに部分を追う見方のほうが細部は読める
- 21枚のうち両端2枚は銘文。絵の部分は19枚で、ハンタンからハンカイへ、紅河からハンガイ・ハンクアットへと続く
- 同じ日に旧市街を歩くなら、描かれた通りの名前を先に押さえておくと見方が変わる。ハンバック通りは銀細工、ハンダオ通りは染物と絹、ハンボン通りは綿打ちが由来の名前だ
この一枚を探しに行く人へ
整理すると、確認が取れた事実はこうなる。グエン・テー・カンが8年と3億ドンを投じた21枚組・全長15m超の彫り漆は完成し、2000年に一度だけ公開され、市の買取は決まらず、作者は2001年に腎不全で亡くなり、愛好家の手に渡って土産物店の壁に落ち着いた。所在が公になったのは2026年10月4日。この間に起きていたのは作品の劣化ではなく、分類と場所の不在だった。
ハノイに行く予定があるなら、やることは三つに絞れる。ゴックハー通り110Bに寄って、カウンターの奥に本当に掛かっているかを自分の目で確かめること。置かれている補足資料のノム字の翻訳に目を通して、19枚が何を書き分けているかを押さえること。そして旧市街を歩くときに、ハンダオ通りの120軒が25軒に削られたという前提で通りを見ること。買う側に回る人は、工芸品として売られている品物に来歴と資料が付くかどうかを必ず聞いたほうがいい。カンの8年が「工芸品か作品か」で止まった理由は、そこにある。
参照元
- Saigoneer:The Search for Vietnam’s Largest Lacquer Artwork, Nguyễn Thế Khang’s 36 Old Streets of Hanoi(2026年10月4日)
- VnExpress:Số phận long đong của bức tranh lớn nhất về Hà Nội(2001年2月22日・原典 Lao Động)
- VnExpress:Tác giả bức tranh lớn nhất về Hà Nội đã mất(2001年3月17日・原典 Văn Hóa)
- Old Street Gallery:Nguyễn Thế Duy(息子の作品アーカイブ)


