ホーチミン市タンフン地区で、朝から2時間並ばないと手に入らないバインミー屋がある。売るのは炭火焼き豚のバインミー1種類だけ、値段は1個88,000ドン(約500円)。米国人シェフのチャド・クバノフさんが自宅前の歩道で8月3日に始めた小さな露店だ。サイゴンで食べ歩きの一軒を探す旅行者と、近所の新しい名物を知りたい在住者に向けて、この行列の中身を分解する。
路上のバインミーが数万ドンで買えるこの街で、なぜ倍以上の値をつけた1品に人が2時間並ぶのか。答えは値段でも話題性でもなく、炭火の焼き豚そのものにあった。
メニューは1品、1日50本が開店1時間で消える歩道の露店
クバノフさんの店にメニュー表はない。あるのは炭火焼き豚のバインミーただ1品。1日に仕込むのは50本で、豚肉は10キロを使い切る。開店は朝9時だが、客は8時から並び始め、列の後ろに回ると受け取りまで2時間かかる日もある。店といっても専用の建物はなく、夫婦が暮らす家の脇の歩道に炭火台を出しただけの構えだ。
「こんなに来るとは思わなかった。50本が1時間で売り切れた」とクバノフさん本人が驚く。ベトナム人の妻トゥイさんは「これだけ待たせて申し訳ない。それでも辛抱強く並んでくれる姿を見ると、味を気に入ってくれているのが伝わってくる」と話す。作り置きせず、その場で炭に肉をのせて焼く方式のため、1本ずつに時間がかかり、列が縮まらない。
米国でベトナム料理店を営んだ10年、看板はいつも焼き豚だった
クバノフさんは38歳。ベトナムに移り住んで10年になり、ベトナム人の妻と子どもと暮らす。渡越前はアメリカでベトナム料理店を営み、そこでいちばん売れた一品が焼き豚のバインミーだった。地元客にも外国人客にも刺さる手応えを掴んでいたから、サイゴンでの再出発でも迷わずこの1品を看板に据えた。
もう一つの顔がある。彼はベトナムの屋台料理を紹介する動画を発信し、登録者は13万人を超える。街の食堂を自ら食べ歩いてきた作り手が、今度は自分の手で焼き豚を焼いて路上に立った格好だ。試食したベトナム人からは10点満点で8.5点という高評価も出ている。外国人が現地の定番料理で地元の舌を唸らせた点に、この露店の面白さが凝縮している。
88,000ドンの中身は、一晩漬けてキャラメルを塗る炭火にある
価格の根拠は手間の量だ。豚肉は前夜から一晩かけて漬け込む。焼くときはキャラメルを刷毛で塗り、途中で水を吹きかけながら炭火にかける。こうすると表面は香ばしく焦げ、中はしっとりと汁気を保つ。ソースは自家製のマヨネーズで、軽い刺激を効かせている。既製の焼き豚を挟むのではなく、炭・漬け込み・仕上げのすべてを1本ごとに通すやり方が、屋台の相場を超える値付けと2時間待ちの両方を生んでいる。
数万ドンで定番のバインミーが買えるサイゴンでは、88,000ドンは強気の設定に映る。だが同じ「高いバインミー」でも、話題づくりが先に立つ店とは色合いが違う。ミシュラン掲載店が出した8ドルの和牛バインミーが価格そのもので論争を呼んだのに対し、クバノフさんの店は素材ではなく焼き方の手間で単価を積み上げている。海外に渡ってニューヨークで28ドルになったバインミー・チャオとも構図は近く、バインミーが「安い軽食」から「並んででも食べる一品」へと居場所を広げつつある流れの一つだ。
タンフン地区・朝9時開店・88,000ドン、訪問前に押さえる早見表
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 場所 | ホーチミン市タンフン地区、夫婦の自宅脇の歩道 |
| 開始日 | 2026年8月3日 |
| 開店時間 | 朝9時(客は8時から並び始める) |
| 価格 | 1個88,000ドン(約500円) |
| 1日の数量 | 50本(豚肉10キロ・開店1時間ほどで完売) |
| 待ち時間 | 最長2時間 |
| メニュー | 炭火焼き豚バインミー1種類のみ |
為替は1円≒175ドン、1米ドル≒148円で概算(88,000ドン=約500円、US$3.36)。相場で変動する。
「街の味」に人はいくら払うか、日本の食べ手にも刺さる問い
この露店が示すのは、屋台の一品でも作り手の物語と手間が伝われば、価格も待ち時間も客が受け入れるという事実だ。ベトナム料理を10年発信してきた外国人が、既製品に頼らず1本ずつ炭で焼く——その透明さが、倍以上の値付けを納得に変えている。日本から食べ歩きに行く人にとっては、安さで攻める定番店とは別の楽しみ方を教えてくれる一軒になる。バインミーを値段つきで比べるなら、ホイアンの名店を値段つきで巡った記録と合わせて読むと、地域ごとの相場観がつかめる。
実際に足を運ぶ人へ、押さえておきたい点を挙げる。
- 確実に買うなら開店の朝9時より前、8時台に並び始めるつもりで動く。
- 1日50本で開店1時間ほどで売り切れるため、昼過ぎに行っても間に合わない可能性が高い。
- メニューは焼き豚バインミー1種類のみ。飲み物や他の総菜は期待せず、この1本を目当てに向かう。
- 1本ずつ炭火で焼く方式なので、列が短くても提供に時間がかかる。急ぐ日は避けたほうがいい。
- 屋外の歩道での販売。日差しと暑さ対策をして並ぶ。
8月3日に始まったばかりの露店で、行列が続くのか一過性で終わるのかはまだ読めない。ただ、1日50本という少量を毎日炭で焼き切る作り方を変えない限り、当面は「朝に並ぶ」以外の近道はなさそうだ。サイゴンで焼き豚バインミーの新しい基準を確かめたい人は、涼しい朝のうちにタンフン地区へ向かうのが唯一の攻略法になる。
