光を失っても厨房に立つ──盲目の越僑シェフ、母の味を追い続けて

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目が見えなくなっても、母の味は手が覚えていた。MasterChef米国版シーズン3を制した越僑(海外ベトナム人)シェフ、クリスティン・ハの半生をたどる記事が、ベトナム発の英語メディアSaigoneerで2026年6月30日に再掲された。視覚障害を抱えながらプロの厨房に立ち、いまも亡き母のベトナム家庭料理を追い続ける彼女の歩みは、料理を通じてルーツと向き合う姿として日本の読者にも響く。彼女が腕を振るう店は米ヒューストンにあり、旅の途中で立ち寄ることもできる。

目次

視力を失いながら、料理の頂点に立った

クリスティン・ハは2004年、免疫が自らの視神経と脊髄を攻撃する難病「視神経脊髄炎(NMO)」と診断された。当時は大学院で創作を学んでいた文学の徒だった。症状は進み、2007年ごろにはほぼ視力を失う。手元の輪郭も色も見えないなかで、彼女が頼りにしたのは、幼い頃に台所で漂っていた匂いと、記憶のなかの母の手つきだった。

転機は2012年。米国の料理オーディション番組MasterChef米国版シーズン3に出演し、視覚障害を持つ初めての参加者として頂点に立った。優勝が発表されたのは2012年9月10日、賞金は25万ドルと料理本の出版契約だった。審査員のオーディションで彼女が披露したのはベトナムの家庭料理。応募時の一皿は豚肉の甘辛煮込み「ティット・コー」、審査での勝負皿は土鍋で魚を煮つける「カー・コー・トー」だった。ベトナムの食卓ではありふれた、母から子へ受け継がれる普段のおかずである。

母のレシピは、遺されなかった

ハの一家はもともとベトナム北部の出身で、1954年のジュネーブ協定を機に南へ移った。両親がベトナムを離れたのは1975年4月29日、米海軍の艦船に乗ってのことだった。難民として渡った先はテキサス州ヒューストン。彼女が2歳のときに一家はこの街に落ち着いた。

母親は彼女が14歳のときに世を去り、料理を直接教わる時間はなかった。レシピノートも残っていない。だからハの料理は、味の記憶を舌でたどり直し、手探りで再現する作業から始まった。見えないぶん、香りや音、鍋肌の温度に神経を集中させる。皮肉にも、視力を失ったことが彼女の他の感覚を研ぎ澄ませ、家庭の味を科学ではなく身体で組み立て直すことにつながった。

ベトナム版審査員という「初めて」

優勝後、ハは料理本『Recipes From My Home Kitchen』を出版し、越僑としての知名度を一気に高めた。さらに2015年からはMasterChefベトナム版シーズン3の常任審査員に就任する。番組を勝ち上がった元参加者が、のちに常任審査員として審査する側に回ったのは、世界のMasterChefシリーズを通じて彼女が初めてだった。挑戦者として味を見られた人物が、審査する立場で祖国のテレビに立つ——その循環そのものが、越僑と本国をつなぐ象徴的な出来事になった。

ベトナム料理が世界で存在感を増すなかで、フォーやバインミーといった看板料理だけでなく、遠い異国で故郷の味を再現する越僑たちの物語が各地から生まれている。ハの歩みも、その大きな流れのなかにある一つの点だ。作り手の人生を知ってから食べると、同じ一皿でも受け取り方が変わってくる。

いまヒューストンで、彼女の料理を食べる

ハが手がける現代ベトナム料理店「The Blind Goat(ザ・ブラインド・ゴート)」は、2018年にヒューストンのフードホール内の小さなスタンドとして始まった。店名は、視力を失った自身と、ベトナムの十二支での彼女の生まれ年である「未(ヤギ)」を掛け合わせたものだ。開業まもなく地元紙ヒューストン・クロニクルから三つ星を得て、2020年には米ジェームズ・ビアード財団の「全米ベストニューレストラン」準決勝候補にも選ばれた。

その後、店はヒューストン北西部スプリングブランチ地区の路面店へと移転し、2026年時点でも営業を続けている。所在地は8145 Long Point Rd, Houston, TX 77055。予約は2026年5月からOpenTableで受け付けている。日本からヒューストンへ直行便はなく、乗り継ぎが前提になるため、旅程に組み込む場合は米国内の乗り継ぎ都市とセットで計画したい。テキサス旅行や米国出張の際に立ち寄れる、越僑シェフの物語が詰まった一軒だ。

ベトナム本国を旅するなら、こうした越僑シェフの料理と本場の家庭料理を比べてみるのも面白い。ハがオーディションで披露したカー・コー・トーのような素朴な煮込みは、ホーチミンやハノイの地元の食堂で気軽に味わえるベトナム料理の延長線上にある。旅先で同じ料理に出会ったとき、遠いヒューストンで母の味を追い続ける一人のシェフを思い出すかもしれない。

越僑の物語が持つ、静かな強さ

ハの物語が多くの人の心をとらえるのは、単に「障害を乗り越えた」からではない。失われたもの——視力も、母も、レシピも——を嘆くのではなく、残された感覚と記憶で味を作り直したところに芯がある。料理は本来、文字に残らない技術だ。手の動き、火加減、香りのタイミングは、隣で見て、匂いを覚え、繰り返して身につく。その口伝の性質こそが、レシピノートを持たない彼女を救った。

ベトナムの食文化には、正確な分量表よりも「目分量」や「味見しながら整える」感覚が根づいている。ハの再現力は、その文化の強みそのものと言える。海外に散った越僑コミュニティが世界各地でベトナム料理を根づかせてきた原動力も、この身体に刻まれた味の記憶にあった。彼女の一皿は、越僑という存在が食を通じて祖国とつながり続けていることを、静かに物語っている。

項目内容
難病の診断視神経脊髄炎(NMO)/2004年診断、2007年頃にほぼ失明
MasterChef米国版シーズン3優勝(2012年9月10日発表、賞金25万ドル)
MasterChefベトナム版シーズン3常任審査員(2015年)/元参加者からの就任は世界初
代表店The Blind Goat(ヒューストン、2018年開業・営業中)
所在地8145 Long Point Rd, Houston, TX 77055

よくある質問

クリスティン・ハの店はベトナム国内にありますか?

いいえ。彼女が手がける「The Blind Goat」は米テキサス州ヒューストンにあり、ベトナム国内には店舗はありません。ベトナム本国とのつながりは、MasterChefベトナム版の審査員としての活動が中心です。ヒューストンの店は2026年時点で営業しています。

彼女がMasterChefで披露したのはどんなベトナム料理ですか?

オーディションでは豚肉の甘辛煮込み「ティット・コー」、審査では土鍋で魚を煮つける「カー・コー・トー」を出しました。どちらもベトナムの家庭で日常的に作られる素朴なおかずで、ホーチミンやハノイの食堂でも近い料理に出会えます。

「越僑(えっきょう)」とは何ですか?

海外に暮らすベトナム系の人々を指す言葉で、ベトナム語では「Việt Kiều(ヴィエット・キェウ)」と呼ばれます。クリスティン・ハのように難民や移民として国外へ渡った家族の子孫が多く、世界各地でベトナム料理を広める担い手になっています。

参照元

Saigoneer: Christine Ha Writes New Food Stories From Her Parents’ Culinary Heritage

Wikipedia: Christine Ha

CultureMap Houston: Houston MasterChef winner Christine Ha opens her Vietnamese restaurant in Spring Branch

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この記事を書いた人

ベトナム・ホーチミン在住3年目|旅行で来るだけでは知ることができない、現地にいるからこそわかるローカル情報を中心に発信していければと思いベトナム旅行の専門情報サイトを立ち上げました。

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