ホーチミン市の中心部からサイゴン動植物園の脇を抜けると、ティンゲー運河に架かる橋に出ます。その橋のたもとに、看板も店名もないコーヒー店がひっそりと店を開けています。間口は2mに満たず、テーブルは3〜4卓だけ。それでも夜明け前の朝5時から客足が途切れません。ベトナムの大手ニュースサイトVietnamNetが2026年7月に紹介したこの店は、布フィルターと炭火で淹れる伝統式コーヒー「カフェ・ヴォッ」を1975年以前から出し続けてきました。値段は1杯12,000ドン(約70円)から。実はこの淹れ方、日本の老舗喫茶店が守ってきたネルドリップと深いところで通じ合っています。チェーン店の一杯とはまったく別の、サイゴンの原風景のようなコーヒー。場所の探し方から注文のコツまでまとめました。
看板なし・間口2m未満、それでも朝5時から客が来る
店があるのはティンゲー橋のたもと、ティンゲー郵便局のすぐ近くです。行政区分ではザーディン坊(旧ビンタイン区側)にあたり、1区の中心部から橋をひとつ渡った先という近さです。
VietnamNetの記事によると、店は1975年より前から営業を続けており、すでに半世紀を超えました。現在切り盛りするのは、先代店主のオン・ナムさんから店を受け継いだ親族のバー・チンさん(67歳)。同じく60代の女性がひとりで店を手伝っています。
営業時間は毎日朝5時から午後3時まで。メニューはカフェデン(ブラック)とカフェスア(練乳入り)が中心で、価格は1杯12,000〜20,000ドン(約70〜120円。1万ドン=約60円で換算)。鉄の扉に白い壁、装飾は何もなく、看板すら出ていません。それでも早朝から常連が集まり、狭い店内はすぐに埋まってしまうといいます。
カフェ・ヴォッとは——チョロン生まれの「靴下コーヒー」
カフェ・ヴォッ(cà phê vợt)の「ヴォッ」は、網やこし器を意味する言葉です。ここでは深い袋状に縫った布のフィルターを指し、そこにコーヒー粉を入れて熱湯を注ぎ、じっくり漉して抽出します。布袋の見た目から、英語圏では「ストッキングコーヒー」とも呼ばれてきました。
この淹れ方を広めたのは、サイゴンの中華街チョロンの華人系コーヒー商たちだったとされています。フランス式の金属フィルター「フィン」が家庭やカフェに広がる以前、サイゴンの庶民が飲むコーヒーはカフェ・ヴォッが主流でした。炭火のコンロに土瓶やアルミポットを載せ、まとめて抽出したコーヒーを温かいまま注ぎ売りするのが伝統のスタイルです。現存する店では、1938年創業のチェオレオ(Cheo Leo)がサイゴン最古のカフェとして知られていますが、この淹れ方を続ける店は市内でも数えるほどになりました。
ティンゲー橋の店の淹れ方も、この伝統そのままです。記事によると、0.5kgのコーヒー粉に1リットルの熱湯を注ぎ、布フィルターで漉して、炭火にかけたアルミ容器で温度を保ちます。炭は営業中ずっと赤く熾きたまま。ホットは小さめのグラス、アイスは大きめのグラスで出てくるのが流儀です。
店のデータと、3つの淹れ方の違い
まず店の基本情報を整理します。
| Item | Details |
|---|---|
| Location | ティンゲー橋のたもと(ザーディン坊・ティンゲー郵便局近く) |
| Founded | 1975年以前(営業50年超) |
| 店主 | バー・チンさん(67歳・先代オン・ナムさんの親族) |
| Hours | 毎日5:00〜15:00 |
| Price | 1杯12,000〜20,000ドン(約70〜120円) |
| Scale | 間口2m未満・テーブル3〜4卓・看板なし |
次に、ベトナムで広く使われるフィン、この店のカフェ・ヴォッ、日本のネルドリップを並べてみます。カフェ・ヴォッの立ち位置がよく見えてきます。
| カフェ・ヴォッ | phin | ネルドリップ(日本) | |
|---|---|---|---|
| フィルター | 布の袋(繰り返し使う) | 金属(穴あきプレート) | 起毛した布(繰り返し使う) |
| 抽出単位 | 大鍋でまとめて抽出し保温 | 1杯ずつ卓上で滴下 | 1杯〜数杯ずつ手で注ぐ |
| 熱源・保温 | 炭火で常時保温 | 保温なし | 店により湯煎・直火など |
| 主な場面 | 路上・下町の朝 | 家庭・カフェ全般 | 老舗喫茶店・専門店 |
「子ども時代の思い出が詰まっている」——通う人たちの声
元記事には、この店に通う人たちの声がいくつも収められています。
- 60代の常連客は「店は昔とほとんど変わらない。ここには子ども時代の思い出がたくさん残っている」と語ります。
- 5歳の頃から通い続けているという客もいます。人生のほぼすべての朝を、この橋の下の一杯とともに過ごしてきた計算です。
- 伝統製法ならではの香ばしさを求めて若い世代も訪れますが、店があまりに狭いため、持ち帰りにする人が多いそうです。
SNSで爆発的にバズる店とは対照的に、ここは記憶の継承で客が続いてきた店です。宣伝はゼロ、看板すらないのに半世紀。この持続力こそが、いま読み解く価値のあるポイントです。
日本のネルドリップとの共鳴——「布を育てる」文化は海を越える
日本の喫茶店ファンなら、ここまで読んで既視感があるはずです。起毛した布(フランネル)で漉すネルドリップは、紙フィルターより厚みのあるまろやかな味を出すとされ、昭和の喫茶店文化を象徴する淹れ方として、今も各地の老舗や専門店が守り続けています。
共通点は布そのものにあります。ネルもヴォッも、フィルターは使い捨てではありません。洗って、乾かさずに保管して、何度も使う。使い込むほどコーヒーが布になじみ、その店の味の一部になっていく。「布の管理がその店の味を決める」という感覚は、京都の老舗喫茶のマスターにも、ティンゲー橋のバー・チンさんにも、おそらくそのまま通じます。
一方で、同じ布フィルターから正反対のスタイルが育ったのも面白いところです。日本のネルドリップは、1杯ずつ時間をかけて点てる「一杯入魂」型。静かな店内で抽出を眺めること自体が体験になっています。対するカフェ・ヴォッは、大鍋でまとめて抽出し、炭火で保温しながら注文のたびに注ぐ「早く・安く・濃く」型。夜明け前に店を開け、市場や工事現場へ向かう人たちの朝を支えてきた、働く街の道具です。鑑賞の文化と実用の文化。布はどちらの器にもなれたわけです。
そしてもうひとつの共通点は、どちらも一度は「手間がかかる」と敬遠され、置き換えられてきたことです。ベトナムではフィンやエスプレッソマシンが、日本ではペーパードリップが主流になり、布の店は数を減らしました。それでも残った店には、人が通い続けています。日本で純喫茶が再評価されているのと同じ構図が、サイゴンでも起きつつあります。ハノイでは著作権料の問題で音楽を止めたカフェがBGMを朗読に切り替えるなど、ベトナムのカフェ文化は今も変化の渦中にあります。その中で「半世紀変わらない」ことは、それ自体が強い個性になりました。蒸し米クレープの老舗がミシュランに載ったように、サイゴンでは変わらない店を再発見する流れがはっきり生まれています。橋の下のこの店が取材されたこと自体、その流れの一部といえます。
行き方・注文の仕方——朝の1時間に組み込むコツ
看板がないので、目印はティンゲー郵便局(Bưu điện Thị Nghè)です。配車アプリの目的地に設定し、橋のたもとで炭火のコンロとアルミポット、路上に並ぶ低い椅子を探してください。市内の移動は、7月から134路線が無料になった路線バスを組み合わせるとコストがほぼゼロになります。
注文はシンプルです。ブラックなら「カフェデン」、練乳入りなら「カフェスア」。ホットは「ノン」、氷入りは「ダー」を後ろに付けます。迷ったら、暑いホーチミンでは定番のカフェスアダー(cà phê sữa đá)がおすすめです。
| Item | Practical notes |
|---|---|
| Markers | ティンゲー郵便局+橋のたもとの炭火と低い椅子 |
| Time slot | 朝5時開店。涼しい早朝がねらい目、15時閉店に注意 |
| Budget | 1杯約70〜120円。小額紙幣の現金を用意 |
| 注文例 | cà phê sữa đá(カフェスアダー)=練乳入りアイス |
| 席 | 3〜4卓のみ。混雑時は持ち帰りが現地流 |
朝5時から開いている店は、早朝行動派の旅程と相性抜群です。ホーチミンには朝9時半に売り切れる地方麺の食堂のように「朝しか出会えない味」が点在しているので、橋の下の一杯を起点に朝食をはしごする半日コースが組めます。
まとめ——次のサイゴンの朝は、橋の下の70円から
ティンゲー橋の下のカフェ・ヴォッは、派手さとは無縁の店です。それでも、炭火と布フィルターが半世紀続いてきた事実には、SNS映えでは代替できない重さがあります。次にホーチミンへ行くなら、初日の朝に早起きして、ティンゲー郵便局を目的地に入れてみてください。カフェスアダーを1杯頼み、炭火の匂いの中で街が動き出すのを眺める。日本のネルドリップ喫茶が好きな人ほど、この70円に込められた時間の厚みが分かるはずです。閉店は15時、そして店主は67歳。「いつか行く」より「今度の旅で行く」をおすすめします。
