米国のオーディション番組『MasterChef』シーズン3で優勝した越僑(ベトナム系)シェフ、クリスティン・ハー(Christine Ha)が、家族から受け継いだ食の記憶を新しい物語として書き直している。彼女は視力を失った全盲の料理人であり、母から手ほどきを受けないまま、味の記憶だけを頼りにベトナム料理を再現してきた。地元メディアSaigoneerが2026年6月末に伝えたこの人物像は、単なる感動譚では終わらない。ベトナム料理を「観光地の一皿」以上に深く味わいたい旅行者にとって、料理の背景にある歴史や地域差を知る格好の入り口になる。
母のいない台所から始まった料理
クリスティン・ハーは、北部ベトナムにルーツを持つ家族のもとに生まれた。一家は1954年のジュネーブ協定を機に南へ移り、1975年4月29日、父は米国へ逃れる直前に母との結婚を急いだという。フィリピン、グアム、ペンシルベニア、シカゴを経て、彼女が2歳のときにテキサス州ヒューストンに落ち着いた。
母は彼女が14歳のときに他界し、料理を教わることも、レシピを書き残してもらうこともなかった。さらに大学院で創作を学んでいた時期、視神経脊髄炎(NMO)という希少な自己免疫疾患を発症し、視力を失っていく。母の味も、目で見た手順もない。彼女に残されたのは、幼い頃に舌が覚えた記憶だけだった。この「欠けた部分を埋める」という営みが、彼女の料理の核になっている。
ブログ「The Blind Cook」からテレビの頂点へ
転機は、当時の恋人(現在の夫)ジョン・ソーが立ち上げを手伝ったブログ「The Blind Cook(盲目の料理人)」だった。これをキャスティング担当者が見つけ、2012年放送の『MasterChef』シーズン3への出演につながる。オーディションで彼女が出したのは、ベトナムの家庭料理カーコートー(cá kho tộ/ナマズの土鍋煮)。魚を西洋風に切り分けず、ベトナムの市場でそうするように縦に切ったまま出した。飾らない一皿が審査員の心を動かした。
彼女は約100人の出場者を退けて優勝し、賞金25万ドルと出版契約を手にした。番組から生まれた料理本『Recipes From My Home Kitchen: Asian and American Comfort Food』はニューヨーク・タイムズのベストセラーになった。その後、彼女はどの国のMasterChefでも初となる「元出場者からのレギュラー審査員」として、2015年に『MasterChef Vietnam(Vua Đầu Bếp)』シーズン3の審査席に座っている。
彼女が語る「北部フォー」と家庭の味
ハーの語る家庭料理には、旅行者がガイドブックだけでは気づきにくい地域差が刻まれている。北部にルーツを持つ彼女の家では、フォーは麺が太めで、ハーブや薬味を最小限にとどめる食べ方だった。ホーチミンで出会う、山盛りの生ハーブとモヤシを添える南部式とはまるで別物である。旅先で「同じフォーなのに店ごとに味が違う」と感じたことがある人は少なくないはずだが、その差の一因は、こうした南北の食文化の距離にある。
彼女が「いちばん頻繁に食べて育った」と振り返るのはティットコー(thịt kho/豚肉のカラメル煮)。テト(旧正月)には母が8インチ四方のバインチュン(bánh chưng/ちまき状のもち米料理)を作った。いずれもベトナムの家庭の食卓に深く根ざした料理で、屋台やレストランの華やかな一皿とは違う、日常の記憶の味だ。
ヒューストンで「書き直す」ベトナム料理
ハーは2019年、ヒューストンのフードホール内に15席のオープンキッチン「The Blind Goat」を開いた。羊年生まれで、盲目の料理人。その二つを重ねた店名だ。ここでは、マクドナルドのアップルパイに着想を得つつ、八角・生姜・ヌクマム(魚醤)のカラメルを効かせた一品など、記憶と実験が交差する料理が並ぶ。
2020年9月には、サイゴンハウスのトニー・グエンと組んだ「Xin Chao」をオープン。テキーラやサトウキビを使ったカクテルを添えた現代ベトナム料理を出す。「引き算のほうがいい。味付けは抑制的でいたい」と語る彼女と、力強い味を好むトニーとの対比が、店の輪郭を作っている。ベトナム系アメリカ料理は1970年代から「止まっていた」と彼女は見るが、若い世代が生んだバインチャンチョン(bánh tráng trộn)やバインチャンヌン(bánh tráng nướng)といった新しい屋台料理には強く惹かれるという。
旅行者への示唆──料理の「背景」を旅の持ち帰りにする
ハーの物語が旅行者に教えてくれるのは、ベトナム料理を「どこで何を食べたか」だけでなく「なぜその味なのか」で受け取ると、旅の記憶が何倍も濃くなるということだ。北と南でフォーの麺や薬味が違う理由、テトにバインチュンを包む意味、家庭のティットコーが店の味とどう違うのか。こうした背景を一つでも知っておくと、屋台の椅子に座ったときの一杯が、ただのご当地グルメではなく「その土地の物語」として口に入ってくる。
実践的には、旅先で南北の食べ比べを意識してみるのがおすすめだ。ハノイでは北部式の澄んだフォーやブンチャーを、ホーチミンではハーブたっぷりの南部式を。同じ料理名でも中身が変わることを前提に注文すると、失敗が発見に変わる。屋台の移動そのものも旅の楽しみで、市内交通の変化は事前に押さえておくと動きやすい。ホーチミンでは7月から134路線の路線バスが無料化され、食べ歩きの足として使いやすくなっている。
越僑シェフが世界に運ぶ「ベトナムの味」
ハーのように、海外で育った越僑の料理人が母国の味を世界へ広げる流れは一つの潮流になっている。シンガポールでミシュランを狙う人、ギリシャの庭でヌクマムを発酵させて故郷の味を再現する夫婦、Googleの職を辞してバインミーを焼く女性など、ベトナム料理は「本場だけのもの」から「世界のどこでも書き直されるもの」へと開かれつつある。こうした担い手たちが、家庭の記憶や地域の物語を皿に乗せることで、ベトナム料理の奥行きは年々深くなっている。
この動きは、日本でベトナム料理に親しむ人にも無関係ではない。フォーやバインミーが日本の街に定着した先で、次に注目されるのは「地域差」や「家庭の味」といった一段深い文脈だろう。旅先で覚えた背景知識は、帰国後にベトナム料理店を選ぶときの解像度も上げてくれる。
Practical information and related links
ベトナム料理を旅の目的の一つにするなら、南北の違いを味わえる都市を組み合わせるのが賢い。北部のハノイと南部のホーチミンを一度の旅で回れば、フォー一つとっても対照的な食体験ができる。海外で活躍する越僑シェフの物語に興味があれば、Google幹部を辞めてシンガポールでバインミーを焼く越僑女性の話や、ギリシャで2年かけてヌクマムを発酵させ故郷の味を再現した越僑夫婦の話も、旅の前後に読むと現地の料理がいっそう味わい深くなる。
Summary
クリスティン・ハーの歩みは、料理が「教わるもの」であると同時に「記憶から取り戻すもの」でもあることを示している。次にベトナムを旅するなら、フォーを一杯すするその前に、北と南で何が違うのかを一つだけ調べてみてほしい。屋台の椅子に座ったとき、目の前の一皿がぐっと立体的に感じられるはずだ。そして帰国後、日本のベトナム料理店で同じ料理を注文すれば、旅の記憶がもう一度よみがえる。それが、料理を通した旅のいちばん贅沢な持ち帰り方だ。
