ハノイ旧市街の路地裏で、一人の学生アルバイトが涙を流した。相手は説教でも高額の贈り物でもなく、通りすがりのカナダ人客が差し出した現金と、ほんの短い言葉だった。ベトナムの屋台バインミー店で起きたこの小さな出来事は、防犯カメラの映像とともに拡散し、多くの人の心を動かした。
私たちが屋台に惹かれるのは、安くて旨いからだけではない。狭いカウンター越しに交わされる会話や、名前も知らない誰かとの一瞬のやり取りが、旅の記憶に残る。今回の一件は、その屋台という空間が持つ力を静かに教えてくれる。
号泣した学生と、間に入ったカナダ人客
ベトナムの報道によると、舞台はハノイ・ホアンキエム区のダオズイトゥ通りにあるバインミーの店だ。ここでアルバイトをするロック・ズイ・ドゥックさんは2005年生まれ、北部ランソン省の出身。6月28日、注文をめぐる行き違いが起きた。別のスタッフが本来2個の注文を1個と書き留めてしまい、数が足りないと気づいた客が声を荒らげたという。
ドゥックさんは記録の誤りだと繰り返し謝ったが、客の怒りは収まらない。そこへ、同じ店にいた客のシャムス・アル=カヒリさん(25歳・カナダ)が間に入った。場がおさまったあと、彼女はドゥックさんに50万ドンを手渡し、「受け取って。誰にも渡さないで。強く生きて」と声をかけた。防犯カメラには、その言葉に触れて泣き出すドゥックさんの姿が残っていた。彼はこの数日、私生活でも学業でもつらいことが重なっていたと伝えられている。張り詰めていた気持ちが、見知らぬ客の思いやりでほどけたのだろう。
二人はその後もインスタグラムで連絡を取り合い、出来事から一か月近くたっても互いの近況を気にかけているという。ドゥックさんはこの経験を、アルバイトで最も心に残った出来事の一つだと語っている。
屋台バインミーという「出会いの場」
バインミーはフランスパンにレバーペーストや自家製の肉、なます、パクチー、唐辛子をはさんだベトナムを代表する軽食だ。朝の通勤前、昼の休憩、夜食まで、時間を問わず人々が屋台の前で足を止める。作り置きではなく目の前でパンを割り、具を詰めてくれるスタイルが多く、注文から受け取りまでのわずかな時間に自然と言葉が交わされる。
この距離の近さこそ、屋台バインミーの本質だと私は考えている。テーブルもレジ待ちの列もない代わりに、売り手と買い手が同じ狭い空間を共有する。今回のように、居合わせた客同士がとっさに助け合う光景が生まれるのも、そうした構造があるからだ。観光客にとっては、ガイドブックの星の数では測れない「人とのふれあい」が生まれる場所でもある。
今回の店があるダオズイトゥ通りは、ホアンキエム湖にほど近い旧市街の一角にある。旅行者と地元客が入り混じるこの界隈は、朝から夜まで屋台の灯りが絶えない。英語が通じにくい店も少なくないが、それでもやり取りが成立してしまうのは、身ぶりと表情で通じ合う下地があるからだろう。今回、英語が得意でないドゥックさんと外国人客の間で誤解が生じ、別の外国人客がそれを解きほぐしたという構図は、この街の縮図のようにも見える。
この出来事の要点
報道で裏が取れた事実を整理する。金額の円換算は1円をおよそ170ドンとして計算した。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 場所 | ハノイ・ホアンキエム区 ダオズイトゥ通りのバインミー店 |
| 店の学生 | ロック・ズイ・ドゥックさん(2005年生・ランソン省出身のアルバイト) |
| 寄り添った客 | シャムス・アル=カヒリさん(25歳・カナダ) |
| きっかけ | 注文の数え違い(2個を1個と記録)による客とのすれ違い |
| 渡された現金 | 50万ドン(約2,900円/1円≈170ドン) |
| その後 | インスタグラムで連絡を継続、約1か月後も交流 |
ネットとメディアの反応
防犯カメラの映像がSNSに投稿されると、ベトナム国内の主要メディアがこぞって取り上げた。ダンチー(Dân trí)やタインニエン(Thanh Niên)、ズニュース(Znews)といった媒体が相次いで報じ、映像は多くの人の胸を打った。反応は大きく三つの方向に分かれた。
一つは、外国人客の振る舞いへの称賛だ。金額の多寡ではなく、怒る客と店員の間にためらわず割って入り、そのうえで励ましの言葉を添えた姿勢に、共感の声が集まった。二つ目は、ドゥックさん本人への同情と応援である。つらい時期に見知らぬ人の優しさで涙する若者の姿に、自分の学生時代や下積みを重ねた人が少なくなかった。三つ目は、注文の行き違いという「よくある失敗」が思わぬ人間ドラマに変わったことへの驚きだ。小さなミスを責め合う話ではなく、その場に居合わせた人の一言で空気が変わるという展開に、心を動かされた人が多かった。
日本人旅行者がローカルと触れ合うために
この話は美談として消費して終わりにするにはもったいない。屋台という場で人と人が触れ合う余地は、旅行者の側にも開かれているからだ。
まず、屋台では受け取るときの一言を惜しまないこと。ベトナム語で「ありがとう」を意味する「カムオン」を添えるだけで、店の人の表情はやわらぐ。次に、混雑や小さな手違いに寛容でいること。今回の一件が示すように、屋台は流れ作業ではなく人が回している場所で、行き違いはつきものだ。声を荒らげるより待つ姿勢が、結果として気持ちのいいやり取りにつながる。そして、目の前で作ってくれる相手に関心を向けること。どの具が人気か、辛さは調整できるかと尋ねるだけで、会話が生まれる。旅先の親切は一方通行ではなく、こちらの態度が呼び水になる。
屋台バインミーの楽しみ方
初めてハノイの屋台に立つなら、まずは定番から試したい。レバーペーストと蒸し豚を合わせた基本形は、店ごとに味が違い、食べ比べる面白さがある。屋台では現金払いが基本で、小額紙幣を用意しておくと会計がスムーズだ。ピークの朝と夕方は行列ができることもあるが、その待ち時間こそ、隣に並ぶ地元客や店主との距離が縮まる時間になる。
店選びに迷ったら、地元の人でにぎわう屋台を目印にするといい。回転が速い店は具が新鮮で、味も安定していることが多い。ホアンキエム湖周辺の旧市街には老舗の屋台が点在し、朝の散歩とあわせて回ると一日の始まりが豊かになる。具は肉系のほか、玉子焼きや練り物を使ったものもあり、辛さやパクチーの量を調整してもらえる店も多い。指さしと簡単な単語で十分に注文できるので、言葉の壁を理由にためらう必要はない。
まとめ
ハノイの路地裏で起きたのは、たった50万ドンと短い言葉が一人の学生の涙を誘った出来事だった。だがその背後には、屋台バインミーという空間が人と人を近づける力がある。旅先での小さな親切は国境を越え、渡す側にも受け取る側にも記憶を残す。次にベトナムでバインミーを手にするとき、カウンター越しの一言を大切にしてみてほしい。その一瞬が、旅で最も心に残る場面になるかもしれない。
