ベトナム北部の朝市に、米粉の生地と味付けした豚肉を薄く交互に重ねて土鍋で蒸す菓子がある。名前はバインハップ(bánh hấp)。VietnamNetが2026年7月23日に伝えたのは、この菓子を30年近く作り続けるチン・ティ・フィさん(1962年生まれ)と、1990年生まれの息子グエン・ニュー・トットさんの朝の仕事だ。家族は午前2時に起き、熱々の蒸し器を何台か5時までに仕上げて市場へ運ぶ。1パック10,000ドン、1円=約162ドンの換算で約62円。日本の読者がこれを「安い郷土菓子の話」で片づけにくいのは、売られている村の住所が2025年に書き換わり、覚えている地名で検索しても現在地にたどり着けなくなっているからだ。
午前2時に始まり、5時に終わる仕事
VietnamNetの記事は、工程を時刻つきで押さえている。米は朝8時から15時まで、およそ7時間水に浸す。そこから何度も研ぎ、乾かして挽き、ふるいにかける。粉になったものを一度蒸してから、生地としてこねる。フィさんは、蒸し器1台分にうるち米6缶ともち米1缶を使うと説明している。缶を升代わりにする「ống bơ」という古い量り方で、もち米は生地をまとめるために入る。
こねる時間は1バッチあたり30分。原文はこの工程を、一連の作業でいちばん時間と手間がかかるところだと書いている。こねあがった生地は小さくちぎり、薄いシート状に伸ばす。そこへ味付けした豚肉をのせ、折り重ねて土製の器に並べ、蒸す。「重ねる」というこの形が、bánh xếp(重ね餅)という別名の由来になっている。
1パック10,000ドンで、1〜2人が満腹になる量だと原文は書く。味付けが済んでいるためそのまま食べてもよく、薄めのヌクマムにつけてもよい、というのが記事の説明だ。餡は脂の乗った部位の豚肉を選び、乾燥エシャロットと塩、うま味調味料で下味をつけてから細かく挽き、伸ばした生地に直接塗ると原文は書いている。
名前が3つある菓子と、住所が書き換わった村
原文によれば、この菓子は地域によってbánh tai voi(象の耳)、bánh tai mèo(猫の耳)、bánh xếp とも呼ばれる。なぜ呼び分けが生まれたのか、記事は理由を書いていない。売られている場所は、チョー・ニャー(chợ Nhà)、別名チョー・トゥアンヴィ(chợ Thuận Vi)という村の市場だ。
厄介なのは住所のほうにある。原文は所在地を「フンイエン省タントゥアン社(旧タイビン省ヴートゥ県バックトゥアン社)」と併記している。2025年4月12日の決議60-NQ/TWでフンイエン省とタイビン省の統合が決まり、新しい省名はフンイエンに一本化された。7月1日の発効で、面積2,514.81平方キロ、人口およそ357万人の省が生まれている。同時に決議1666/NQ-UBTVQH15によって、タンラップ社・トゥタン社・バックトゥアン社の3つがタントゥアン社へまとめられた。「タイビンの銘菓」と記憶している人が地図アプリでタイビン省を探しても、行政上の単位としてはもう出てこない。
同じ再編で観光地の呼び名が入れ替わった例はほかにもあり(旧クアットラムが「ザオニン」に、ニンビン新ビーチの歩き方)、旧名と新名を両方控えてから出発する作業が、2025年以降のベトナム旅行では実務になっている。
朝市の粉菓子を、値段の安い順に並べる
チョー・トゥアンヴィで売られている粉菓子は、バインハップだけではない。地元紙Dân Việtと生活情報サイトEva.vnが現地で拾った価格を、1円=約162ドンで換算して並べる。バインハップ以外は2023年前後のルポに基づく数字で、現在の売値とは差がある可能性がある。
| Item | 現地価格 | 円換算(1円=162ドン) | Sources |
|---|---|---|---|
| バインハップ | 10,000ドン/1パック | 約62円 | VietnamNet(2026年7月23日) |
| Banh cuon | 約10,000ドン/1人前 | 約62円 | Dân Việt・Eva.vn |
| Banh beo | 5,000ドン | 約31円 | Dân Việt・Eva.vn |
| バインザイヨー(bánh giầy giò) | 3,000〜5,000ドン/2個 | 約19〜31円 | Dân Việt・Eva.vn |
| バインザイドー(bánh giầy đỗ) | 1,000〜2,000ドン/1個 | 約6〜12円 | Dân Việt・Eva.vn |
換算は端数を丸めている。10,000ドンを162で割ると61.7円、5,000ドンなら30.9円。この市場の粉菓子は10,000ドンあたりで頭打ちになっていて、バインハップはその天井の側にいる。粉を挽くところから始める工程の長さを考えると、値付けは市場の相場に合わせて据え置かれてきた形だ。
作り手・息子・地元ルポ、三方向から見た同じ市場
フィさんの言葉は工程の説明に終始していて、価格や商売についての発言は記事に出てこない。語っているのは分量と時間だけだ。
息子のトットさんは、母の配達を手伝いながら、この菓子を紹介する動画を撮ってSNSに投稿していると原文にある。トットさんは「バインハップは私にとって慣れ親しんだ朝ごはんになった」と語り、豚肉と米粉だけで作るから体にやさしく清潔で、腹持ちがいいから近隣の人に好まれる、と説明する。ただし原文の工程説明のほうを読むと、餡には乾燥エシャロットと塩とうま味調味料が入る。「豚肉と米粉だけ」は本人の売り文句であって、記事が書いている材料そのものではない。同じ発言のなかで彼は、昔の米を使い木の杵と石臼で搗いていた頃のほうが柔らかく粘りがあったと振り返り、今は機械挽きの粉が主だが品質と味は大きく変わらず、時間と手間が減って生産量は上がったとも述べている。
市場の姿は、地元メディアの過去ルポで補える。Dân Việtは、ふつうの村の市場が決まった日にしか立たないのに対し、チョー・トゥアンヴィは毎朝開くと書き、朝8時ごろにはもう買うものが残っていないと記している。Eva.vnはこの市場の開設を1928年とし、1回の立ち時間は2〜3時間ほどだと伝えている。作り手が5時に間に合わせようとする理由は、この短い窓に全部かかっている。
開いている総時間が極端に短い市場はベトナム各地にあり、旧暦の特定日にしか立たないものもある(月に一度・旧暦26日だけの夜市、タイグエン奥地チャンサーへ)。旅程を組むときは、営業時間より先に「1日あたり何時間開くのか」を確かめておくと空振りが減る。
62円のまま残した工程と、すでに機械へ渡した工程
日本の食品づくりの目線でこの作り方を眺めると、削った工程と残した工程がはっきり分かれている。すでに削られたのは粉挽きだ。木の杵と石臼は機械に置き換わったと、トットさん自身が説明している。残っているのは7時間の浸漬と、1バッチ30分のこね。市販の米粉を買えば浸漬もふるいもまとめて消えるのに、そこには手をつけていない。
この線の引き方には理屈がある。粉挽きは、機械に渡しても出来上がりの説明が変わらない工程で、味と品質は大きく変わらないと本人が言い切っている。一方の浸漬とこねは食感に直結するので、短くすれば「柔らかく粘りがある」という評価のほうが先に崩れる。62円という売価は、崩していい工程と崩せない工程を選り分けた結果として立っている。値上げをせずに生産量を上げる方法として、機械化する場所を1か所に絞った形だ。
売り方のほうは、商品に手を触れずに広げている。トットさんがしたのは配達で近隣を回りながら動画を撮って投稿することであって、レシピを変えることではない。似た継承のしかたはホーチミン市の麺店にもあり、4代目が80年続いた味をそのままTikTokに載せている(80年の味をTikTokで継ぐ、サイゴン4代目のフーティウ店)。
この菓子に固有の事情もひとつある。米粉と肉が層になっているので、割った断面がそのまま画になる。丸い餅や汁物と違い、演出を足さなくても構造が画面に出てくる。SNSで伸びる素地が、味ではなく形状の側にあるという珍しい組み立てだ。
1日3時間しか実在しない商品は、どこまで届くのか
ここに落差がある。動画は24時間見られるのに、実物が存在するのは朝5時から8時ごろまでの3時間で、残る21時間は買えない。原文が触れている販売経路は、市場での対面販売と、トットさんが近隣を回る配達の2つにとどまる。宅配便や通信販売に対応しているかどうかは公表されていないので、遠方から取り寄せられる前提で予定を組むべきではない。
食品の仕入れや商品開発でベトナム北部を見ている人には、この構造が初手で効く。蒸したてを前提にした菓子は常温流通の設計がそのままでは成り立たないため、輸出や土産物化を検討する前に、冷却と再加熱の工程を誰が負担するのかを決めておく必要が出る。そこを詰めないまま「現地で人気だから」と進めると、3時間の商品を24時間の棚に載せる無理だけが最後に残る。
行政再編の影響は、流通よりも先に検索のところに現れる。「Thái Bình の名物」として書かれた過去記事と、「Hưng Yên」で書かれた新しい記事が、同じ市場を指しながら別々に積み上がっている状態だ。現地で人に尋ねるときは、新住所のタントゥアン社より、旧名のバックトゥアン、あるいは市場名のトゥアンヴィのほうが通じる見込みが高い。
訪ねる前に確かめておくこと
| Product | バインハップ(bánh hấp)。別名 bánh tai voi/bánh tai mèo/bánh xếp |
|---|---|
| 作り手 | チン・ティ・フィさん(1962年生まれ、経験30年近く)と息子グエン・ニュー・トットさん(1990年生まれ) |
| Price | 1パック10,000ドン(約62円)。1〜2人が満腹になる量 |
| 売り場 | チョー・ニャー(chợ Nhà、別名 chợ Thuận Vi) |
| Address | フンイエン省タントゥアン社(旧タイビン省ヴートゥ県バックトゥアン社) |
| 買える時間 | 作り手は午前5時に仕上げる。市場は毎朝開き、1回あたり2〜3時間。朝8時ごろには売り物が残らないとDân Việtが報じている |
| How to eat | そのまま、または薄めのヌクマムにつけて(原文の説明) |
| アクセスの目安 | 原文に記載なし。旧バックトゥアン社はヴートゥ県内。タイビン市中心部からの距離は媒体により13kmと20kmで食い違うため、出発前に地図で実測する |
| Payment methods | 公表されていない(現金以外の可否は原文に記載なし) |
| 電話番号・定休日 | 公表されていない |
表に「公表されていない」と書いた欄は、こちらが調べ切れなかったという意味ではなく、原文にも地元メディアにも記載がないという意味だ。個人が家で作って市場に運んでいる規模なので、予約や取り置きを前提にした問い合わせ先は存在しないとみておいたほうがいい。
Summary
実際に食べに行くなら、準備は3つに絞られる。まず地図アプリに「Thái Bình」ではなく「chợ Thuận Vi」か旧名の「Bách Thuận」を入れて、位置を先に確定させること。次に、朝5時から8時までに現地に着ける前提で前泊地を決めること。ハノイから日帰りでこの時間帯に間に合わせるのは、まず難しい。最後に、フィさん一家の連絡先も定休日も公表されていない以上、売り切れを前提に第二候補を決めておくこと。バインベオやバインザイなら、同じ市場で31円以下から試せる。
仕入れや商品開発の側からこの地域を見ている人には、別の読み方もできる。粉挽きだけを機械に渡し、浸漬とこねは手元に残したまま62円で回っている家内工程は、どこまで機械化しても売り文句が保つのかの実例として読める。次にこの地域へ入るときは、同じ市場の他の作り手が浸漬とこねをどう扱っているかを聞いて回ると、この線引きが一軒だけの判断なのかどうかが見えてくる。
Sources:VietnamNet/Dân Việt/Eva.vn/Báo Hưng Yên/Thư viện pháp luật/ベトナム国家観光局
