ホーチミン市の中心部から北西へ数キロ、タンビン区バイヒエン地区の路地に「チョ・バーホア」という小さな市場がある。ここに一歩入ると、飛び交う言葉のイントネーションも、店先に並ぶ菓子の顔ぶれも、南部サイゴンのものではない。中部クアンガイやクアンナムの味そのものだ。地元メディア Saigoneer が2026年7月15日に報じたのは、観光客がほぼ足を踏み入れないこの一角で、中部の屋台菓子を丸ごと食べ歩けるという事実だった。1区の喧騒から離れたこの市場は、ベトナム中部を旅する時間もお金もない日本人旅行者にとって、半日で中部食文化を味見できる穴場になりうる。
市場の名は、土地を拓いた「ホアさん」から
チョ・バーホアは1964〜1967年ごろ、戦火を逃れて中部からサイゴンへ移り住んだ人々の手で生まれた。低湿地だった土地を「ホア」という女性が埋め立てて整え、市場に仕立てたことから、彼女の名がそのまま市場名になった。行政上は「11坊市場」と改名されたが、地元では今も誰もがバーホア市場と呼ぶ。中部からの移民が同郷の食材を売り買いする場として始まり、半世紀を経ても中部色を保ち続けている点が、他のサイゴンの市場と決定的に違う。
中部からの移民が守り抜いた「同郷の台所」
ベトナムは南北に細長く、中部・南部・北部で味付けも食材も別物といっていい。南部は甘め、北部はあっさり、そして中部は塩気と辛味、発酵の効いた濃い味が身上だ。バイヒエン一帯はもともと中部出身者が織物業で集まった街で、市場はその暮らしを支える台所として機能してきた。朝は生鮮の食材、午後2時ごろからは路地に露店が並び、その場で焼き・煮る調理済みの料理が主役に変わる。炭火でクラッカーを黄金色に焼く煙、発酵魚醤の匂い、素朴な菓子の湯気。観光地化されていないぶん、価格も味付けも地元向けのままだ。
並ぶ品も中部一色である。ビンディン式のココナッツ入りライスペーパー、クアンナムのダイロック式の巻き用ライスシート、胡麻を散らした煎餅など、南部の市場ではまず見かけない中部専用の食材が棚を埋める。菓子も、黄色く花開くように焼く「バイントゥアン」、葉で包んだ黒い「バインイッ・ラーガイ」、肺のような形から名がついた白い砂糖菓子「ドゥオンフォイ(肺砂糖)」など、地域名がそのまま冠された品が多い。中部を旅したことのある人ほど、棚を眺めるだけで土地の記憶が呼び起こされるはずだ。
何が買えて、何が食べられるのか
菓子から発酵調味料まで、中部の品がひととおりそろう。価格は現地の一般的な屋台相場からの目安で、1円=約170ドンで換算した。市場では表示のない量り売りも多く、実際は店とのやり取りで決まる。
| 料理・品目 | 特徴 | 価格の目安(円換算) |
|---|---|---|
| ミー・クアン | クアンナム名物の平打ち麺。豚肉やエビ、煎り落花生、胡麻煎餅、香草を少なめのスープで和える中部の代表格 | 約3〜5万ドン(180〜290円) |
| バインダップ・マムネム | 焼き煎餅にしっとりした米シートを重ね、発酵アンチョビだれで食べる中部の軽食 | 約1.5〜2.5万ドン(90〜150円) |
| バインベオ | 小皿蒸し米粉に干しエビとネギ油をのせた一口点心 | 約2〜3万ドン(120〜180円) |
| スーソア | 海藻から作る半透明の寒天菓子。黒糖シロップと生姜の砂糖漬けを添える冷菓 | 約1〜1.5万ドン(60〜90円) |
| バイントー | もち米粉と砂糖・生姜・胡麻を蒸し固めたクアンナム式の郷土菓子 | 約5千〜1万ドン(30〜60円) |
| 各種マム(発酵魚醤) | クアンガイで好まれるマムカイ、マムネム、イワシやトビウオのマムなど瓶詰め | 約3〜6万ドン(180〜350円) |
路地に集う「故郷の味」を求める声
記事を書いたのはクアンガイ出身のライター、トゥー・ハー氏。家族とともにサイゴンで暮らし、故郷へは年に数回しか帰れない。その彼女が「街に戻ってくるたび、どうしようもなく市場が恋しくなる」と綴っている。バーホア市場が単なる買い物の場でなく、望郷を癒やす装置であることが、この一言に凝縮されている。
記事によれば、市場に通うのは中部出身の移民たちで、南部では手に入りにくいマムや郷土菓子を求めてやってくるという。故郷でしか食べられなかった味が、都会のど真ん中で買えることの意味は大きい。
露店では店主が炭火にかがみ込み、クラッカーを一枚ずつ焼き上げる。既製の総菜を市場のあちこちで煮炊きする光景は、記事が「田舎の寄り合い所のようだ」と描くとおりで、売り手も買い手も同郷という空気が流れている。
日本人旅行者が行くなら、時間帯と場所のコツ
市場はタンビン区バイヒエン地区、チャンマイニン通り沿いにある。1区のベンタイン市場からはタクシーで20分ほど、観光ルートからは外れるが、そのぶん値段は良心的だ。狙い目は二つ。生鮮や菓子をじっくり見たいなら早朝から昼前、露店の調理済み料理を食べ歩きたいなら午後2時以降がいい。市場は早朝から昼にかけてが最も混み合い、入り口には自転車や屋台車がずらりと並ぶ。ミー・クアンやバインベオを数種つまみ、スーソアで締めれば、中部一巡りの気分が味わえる。
実務的な注意も添えておく。マムは瓶詰めなので土産にもなるが、匂いが強いため機内持ち込みより預け荷物向きだ。露店は現金のみが基本なので、小額紙幣を多めに用意しておきたい。量り売りは表示価格がないことも多く、注文前に店主へ総額を確かめてから頼むと安心できる。観光客向けの英語メニューは期待できないので、食べたい料理名を控えて指差しで頼むのが早い。屋台の調理済み料理は昼過ぎから夕方が最も種類豊富だ。
ベンタインやチョロンとは何が違うのか
サイゴンの有名市場、観光客で賑わうベンタインや中華街チョロンのビンタイ市場は、土産物や卸の色が濃い。ナイトマーケットの多くも、写真映えする屋台や外国人向けの品ぞろえに寄っている。対してバーホア市場は、特定地域(中部)の食に一点特化した「郷土市場」だ。同じ屋根の下で買えるものが、南部でも北部でもなく中部で統一されている市場は珍しい。売り手も買い手も中部出身という均質さが、味付けの純度を保っている。
ベトナムの地方差を舌で理解したい人にとって、フエやホイアンまで足を延ばさずとも中部の食を体験できるのは、この市場ならではの価値といえる。中部への旅程を組めない短期滞在者ほど、半日でその輪郭をつかめるこの市場の存在はありがたい。逆に、写真映えや土産の量を重視するなら中心部の大市場のほうが向いており、目的に応じて使い分けるとよい。
まとめ
チョ・バーホアは、戦火の移民が半世紀かけて守った中部の台所だ。観光ガイドにはほとんど載らないが、ミー・クアンから発酵マム、素朴な郷土菓子まで、中部の食が路地一本に凝縮されている。1区から少し足を延ばすだけで、フエやクアンナムを旅した気分になれる。サイゴン滞在に半日の余白があるなら、この静かな市場で中部の味を食べ歩いてみる価値は十分にある。
