ハノイから北へ45キロ。晴れた日のトー・ハー村では、細い路地という路地が竹すだれで埋め尽くされ、村全体が真っ白なトンネルに変わる。すだれ一枚ずつに広げられているのは、その日の朝5時に漉かれたばかりのライスペーパー(越名バインダーネム)だ。写真に撮れば非日常の一枚になるが、村人にとっては生活そのもの。ハノイ在住者が半日で足を延ばせる範囲に、これほど絵になる働く風景はそう多くない。
起点となった一枚のルポ
この村を改めて広めたのは、2026年7月17日にサイゴニアが公開したキット・ハンフリー氏の写真ルポだ。夜明け前から動き出す村で、女性たちが路上でせんべいを火にあぶり、男たちが何千枚もの「フェン」(ライスペーパーを干す竹パネル)を路地に並べていく様子を淡々と記録している。派手な演出はない。ただ、白い紙が村を覆い尽くす光景そのものが強烈で、SNSで映えスポットとして拡散した理由がよくわかる。ルポが伝えるのは、この白い風景が観光向けに用意されたものではなく、毎朝繰り返される仕事の副産物だという事実だ。だからこそ、行けば必ず同じ光景に出会えるとは限らない。天気と時間帯が合ったときにだけ、路地は真っ白に染まる。
陶器の村から「紙の村」へ
トー・ハーはバクザン省ベトイエン県ヴァンハー社にある古い村で、もともとはライスペーパーの村ではなかった。14世紀には紅河デルタ屈指の陶器の産地として栄え、その名残はいまも村の壁に残る。モルタルを使わず、割れた甕(かめ)や陶片を積み上げて築いた塀は、この村だけの独特の景観をつくっている。骨壺として焼かれた器が建材に転用されたという逸話も、陶器の村だった歴史を物語る。
川砂の枯渇などで陶業が細った1990年代以降、村はライスペーパーとせんべい作りへ生業を切り替えた。いまでは600世帯以上がこの仕事に携わり、1世帯あたり日に250〜300キロを漉く。トー・ハー産のライスペーパーは生春巻きに欠かせない一枚として全国に流通し、台湾・韓国・日本・欧州へも輸出されている。添加物を使わず、空気中の薄い霧の中で干すことで質が決まる、というのが村に受け継がれる技だ。水に浸してもすぐ破れない厚みと弾力が、生春巻きの皮として重宝される理由でもある。
陶器の記憶とライスペーパーの現在が同じ路地に重なっているのが、この村の面白さだ。足元には陶片の壁、頭上には白い干し場。生業は入れ替わっても、川に開かれた集落の構造や古い村門はそのまま残り、時代の層が幾重にも折り重なっている。観光地として整備された村ではなく、生活が続いている場所を歩いている感覚が最後まで抜けない。
見どころ・ベストシーズン・アクセス早見表
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| いちばんの見どころ | 路地を埋める白いライスペーパーのトンネル、路上でせんべいを焼く女性たち、陶片を積んだ壁と古い村門 |
| ベストシーズン | よく晴れて乾いた日ほど干し場が広がる。生産の最盛期は9月〜翌2月で、旧正月(テト)前は需要が跳ね上がる |
| 時間帯 | 朝5時から仕込みが始まり、日中に一斉に干す。午前中が最も絵になる |
| アクセス | ハノイから約45キロ。車で約1時間走り、コウ川の渡し舟で対岸へ渡る |
| 滞在の目安 | 散策と撮影で半日。ハノイ日帰りに収まる |
村に流れる声
村の職人たちが口をそろえるのは、天気次第だという一点だ。晴れて乾いた空気の日は路地が埋まるほど干せるが、雨が続けば仕事にならない。「霧の中で干すと味が良くなる」という言い伝えは、単なる伝承ではなく品質を左右する現実的な条件として語られている。
暮らしの実感も数字に出ている。報道によれば、この仕事で得られる収入は1人あたり月700万〜1,000万ドン(およそ4万〜6万円)ほど。多くの世帯にとって主たる生計であり、路上の白い風景は観光の演出ではなく生活の結果だという声が繰り返し紹介されている。
季節の波もはっきりしている。9月から翌2月にかけてが最盛期で、旧正月が近づくとせんべいやライスペーパーの需要が一気に増える、と村では説明される。訪ねる側にとっては、この時期こそ路地が最も賑わい、火にあぶるせんべいの香りが村中に立ちのぼる季節でもある。
ハノイからの行き方と注意点
トー・ハーの最大の特徴は、村へ橋がなく、コウ川を渡し舟で渡ってたどり着くことだ。車やバイクなら旧国道1A号をバクニン方面へ約1時間、川べりの船着き場まで来て舟に乗り換える。渡し場は村に三つあり、共同の集会所(ディン)前のチュア渡し場が目印になる。舟は朝から晩まで随時出ているので、時刻表を気にしすぎる必要はない。
公共交通なら、ハノイのロンビエン・バスターミナルからバクニン市行きの54番バスに乗り、そこからタクシーかバイクタクシーで船着き場まで1.5キロほど。ハノイ市内の路線バスは電気バスへの切り替えが進んでいるので、乗り継ぎ前の市内移動は年々スムーズになっている。舟は生活の足でもあるため、大きな荷物や自転車を持ち込む地元の人の邪魔にならないよう譲り合いたい。路地は生活道路そのものなので、干している竹パネルを踏まない、作業の手元にカメラを寄せすぎない、といった配慮が欠かせない。ハノイから3時間ほどのランソンの味覚旅と比べても、トー・ハーは日帰りの負担がずっと軽い。
近くの伝統村とどう違うか
ハノイ近郊には手仕事の村がいくつもあるが、トー・ハーの個性は「作業そのものが景観になる」点にある。たとえば隣接するバクニン省のドンホー版画の村は、工房に入って刷りを体験する屋内型の楽しみ方が中心だ。対してトー・ハーは、路地に出て歩くだけで村全体の仕事場を見渡せる屋外型。しかも橋ではなく舟で渡るという一手間が、時間が止まったような村の空気を保っている。陶器の壁、古い村門、白い干し場、火にあぶるせんべい——ひとつのテーマに絞られた工芸村とは違い、複数の生活の層が一度に目に入るのがこの村ならではだ。
まとめ
トー・ハーは、映える一枚を撮りに行く村であると同時に、ベトナム北部の暮らしがそのまま風景になっている村だ。ハノイから45キロ、車で1時間と渡し舟。晴れた日の午前を狙えば、白いライスペーパーのトンネルと路上のせんべい焼きに確実に出会える。テト前の最盛期ならなおさら賑やかだ。橋を渡らず舟で入るという小さな非日常が、この村の時間の流れをそのまま守っている。ハノイ滞在に半日の余白があるなら、足を延ばす価値は十分にある。
