移動はただの移動ではなく、それ自体が旅の目的になりつつある。ベトナム鉄道(VNR)が進める「遺産列車(ヘリテージトレイン)」は、車内で民謡ライブを聴き、郷土料理を味わいながら短い区間を巡る観光列車だ。ハノイ近郊を走る「5 Cua O(5つの城門)」号は運行開始から1年足らずでおよそ7万人を運んだ。日本でも「ななつ星」や「四季島」が定着したように、ベトナムでも乗ること自体が体験になる旅が立ち上がっている。次にベトナムを訪れる日本人旅行者にとって、ハノイやフエの滞在に半日だけ組み込める新しい選択肢として知っておく価値がある。
起点ニュース:VNRが遺産列車に本腰
2026年6月、ベトナム鉄道の報道で、同社が観光列車を主力商品に育てる方針が改めて打ち出された。ハノイ駅を出発する「5 Cua O」号は、車内に伝統民謡「シャム(xam)」の生演奏が響き、古いハノイの物語とともにバクニン省の文化エリアへ向かう。フエ〜ダナン間の「中部遺産連結(Central Heritage Connection)」号ではフエの宮廷歌曲が披露され、ハイヴァン峠の海岸線を眺めながら郷土料理が供される。VNRのホアン・ザー・カイン総裁は、遺産列車について「改革と統合を進めながら文化的アイデンティティを保つ国の姿を、現代的な体験の言葉で物語るもの」と位置づけている。
背景:なぜ今、観光列車なのか
ベトナムの鉄道は長らく「安いが古い長距離移動手段」という位置づけだった。高速道路や格安航空の整備が進むなか、在来線は速度では勝負にならない。そこでVNRが選んだのが、速さではなく体験で価値を生む路線づくりだ。短距離区間に絞り、車両を作り込み、車内に音楽と食を持ち込む——移動時間そのものを商品にする発想に切り替えた。
象徴が「5 Cua O」号だ。名称はハノイ・タンロン城の古い城門「五つの門」に由来し、2026年6月時点で運行開始から1年弱でおよそ7万人を集めた。運行7か月時点で6万1千人超という途中経過も報じられており、右肩上がりの集客が裏づけられる。10両編成の2階建てで、各車両がハノイの城門をモチーフに装飾されている。ハノイ〜ハイフォン間では2025年5月に「Hoa Phuong Do(紅い火炎樹)」号が20両の新造車で登場し、フエ〜ダナン間の遺産列車と合わせ、北部・中部それぞれで観光列車の網が広がってきた。
データ:主要3路線を比べる
旅行計画に使える範囲で、運賃・所要時間・距離を複数ソースで突き合わせた。為替は2026年6月時点の1円≒167VNDで換算している(円換算は目安)。
| 路線・列車 | 区間 | 所要・距離 | 運賃(片道) |
|---|---|---|---|
| 5 Cua O号 | ハノイ〜バクニン(トゥーソン) | 約3.5時間(文化体験の停車含む)/1日2往復 | 約55万〜75万VND(約3,300〜4,500円) |
| 中部遺産連結号 | フエ〜ダナン | 約3時間/約100km | 約18万〜21万VND(約1,100〜1,300円・曜日で変動) |
| Hoa Phuong Do号 | ハノイ〜ハイフォン | 20両の新造車・通常便もあり | 上級席で約65万〜75万VND(約3,900〜4,500円) |
「5 Cua O」号は1日2往復で、ハノイ駅を起点にロンビエン・ザーラム・イェンヴィエンを経てバクニン省トゥーソンへ向かう。フエ〜ダナン間は約100kmをおよそ3時間かけて走り、途中ラインコー駅で約10分停車する。距離だけ見れば在来の普通列車でも結べる区間だが、遺産列車は車両と車内体験に価値を置いている点が違う。
現地・業界の反応
地元の受け止めで目立つのは、ベトナム人自身が乗りに来ている点だ。観光列車というと外国人向けに見えるが、城門の物語や民謡は地元客の郷愁にも刺さり、家族連れや若い世代が記念に利用する姿が報じられている。SNS上では「ハノイから日帰りで非日常を味わえる」「車内の演奏が想像以上に本格的だった」といった声が広がり、写真映えする内装が拡散を後押ししている。
業界側は、在来線資産の再評価という文脈で歓迎する見方が強い。古い路線と駅舎を「遺産」として磨けば、速度競争に巻き込まれずに収益化できる——その実証として「5 Cua O」号の集客が引き合いに出される。一方で、1日2往復という供給の少なさや、繁忙期の予約の取りにくさを課題に挙げる声もある。観光商品として育てるなら、運行頻度と予約導線の整備が次の論点になるという指摘だ。
日本人旅行者への示唆:ななつ星との違い
日本の観光列車に慣れた人ほど、ベトナムの遺産列車は別物として捉えると満足度が高い。JR九州の「ななつ星」やJR東日本の「四季島」は、数十万円規模で数日を過ごす周遊型の高級クルーズトレインだ。対してベトナムの遺産列車は、片道数千円・所要3時間前後で半日に収まる体験型の短距離列車にあたる。価格も滞在時間も一桁違い、位置づけは「特別な記念旅行」ではなく「滞在中に気軽に足せる午後の小旅行」に近い。
この違いは旅程の組み方に直結する。ハノイ滞在中なら、午前は旧市街を歩き、午後に「5 Cua O」号でバクニンの文化エリアへ——と半日単位で差し込める。フエとダナンを移動する予定があるなら、区間バスやタクシーの代わりに中部遺産連結号を選べば、移動がそのままハイヴァン峠の絶景観賞になる。鉄道インフラそのものの近代化が進んでいる流れは、ハノイの国産メトロ車両の記事でも触れた通りで、都市内の足から観光列車まで、ベトナムの鉄道体験は数年前とは様変わりしている。空路と組み合わせるなら、フーコック直行便の記事と読み合わせると、鉄道と空路でどこを陸路に振るかの判断材料になる。
市場への波及:鉄道観光という新カテゴリー
遺産列車の成否は、ベトナムの観光商品の幅を左右する。これまでの主役はビーチ・世界遺産・都市グルメだったが、そこに「移動を体験に変える鉄道旅」が加われば、滞在日数を伸ばす理由が一つ増える。半日で完結する体験は、ツアー会社にとってもオプション商品として組み込みやすい。VNRが車両を作り込み、地元の音楽家や料理人を巻き込む構図は、沿線の文化・飲食にも経済効果を波及させる。
日本の旅行業・観光関連企業にとっても、ベトナムの鉄道観光は提携や送客の新しい接点になり得る。短距離・体験型という型は、日本各地のローカル線が取り組んできた手法と重なる部分が多く、知見の輸出入の余地がある。離島・地方分散型の観光が広がる流れは、コンダオ島の記事とも地続きで、鉄道はその回遊をつなぐ装置になる。
実用情報:乗る前に押さえる点
- 5 Cua O号は1日2往復(午前・午後)。ハノイ駅発、トゥーソン(バクニン省)行き。所要は文化体験の停車を含めて約3.5時間
- 中部遺産連結号はフエ〜ダナン間を約3時間で結び、途中ラインコー駅で約10分停車。車窓の見せ場はハイヴァン峠の海岸線
- 運賃は路線・座席により幅がある。遺産列車の上級席は数千円規模、フエ〜ダナンの観光列車は平日約18万VND・土日約21万VND(約1,100〜1,300円)が目安
- 人気路線は便数が少なく繁忙期は埋まりやすい。予約はVNRの公式販売サイトや現地旅行会社経由で、出発前に最新の時刻・料金を確認するのが無難
- 列車名や運賃は改定されることがあるため、ここに挙げた数値は計画の目安として使い、購入時に必ず最新情報を照合する
まとめ:次の旅で半日だけ列車に乗る
ベトナムの遺産列車は、高額な周遊クルーズではなく、滞在中の午後に気軽に足せる体験型の小旅行だ。ハノイなら「5 Cua O」号で城門と民謡の物語を、フエ〜ダナン間なら中部遺産連結号でハイヴァン峠の絶景を、それぞれ片道数千円で味わえる。次にベトナムを計画するなら、観光スポットの合間に半日だけ列車を組み込み、移動そのものを目的地に変えてみてほしい。予約はVNR公式か現地旅行会社で、出発前に時刻と運賃を確認するところから始めるとよい。
