サパから車で30分、紅ザオ族の村が観光のかたちを変えた
ベトナム北部ラオカイ省のサパ。棚田とトレッキングで知られるこの高原リゾートから北東へ17キロ、標高約1,500メートルの斜面にタフィン(Ta Phin)村がある。住民の多くは紅ザオ(Red Dao)族で、女性たちが受け継いできた薬草風呂と刺繍が、いま村全体の生計を支える観光資源になっている。地元紙ベトナムプラスは、ラオカイ省が伝統工芸を持続可能な生業へとつなげている事例として、このタフィン村を取り上げた。
日本からサパへ向かう旅行者にとって、タフィン村は「混雑したサパ中心部とは別の時間が流れる場所」として注目されている。なぜ一つの少数民族の手仕事が、外部資本に頼らずに村の経済を回せるまでになったのか。その仕組みは、地方の食や農、伝統技術を観光につなげたい日本の地域にとっても示唆に富む。
120人の女性が立ち上げた薬草風呂の協同組合
起点となったのは、2015年に紅ザオ族の女性タン・タ・マイ(Tan Ta May)氏が地域の女性120人とともに立ち上げた薬草風呂の協同組合だ。それまで各家庭で個別に営まれていた薬草風呂を組織化し、観光客が安心して泊まれる仕組みに整えた。
使われる植物は、葉・茎・樹皮を合わせて200種を超えるとされる。紅ザオ族は山に分け入って自生する植物を集め、煮出した湯を木桶に張る。観光向けの簡略版ではなく、家庭で受け継がれてきた配合に近いかたちで提供している点が、タフィン村の薬草風呂が支持される理由になっている。本記事では効能を医療的に断定しないが、温かい湯に身を沈める入浴体験そのものが、トレッキングで疲れた体をほぐすリラックスの時間として旅行者に好まれている。
30施設・80室の宿泊体制と、村に落ちるお金
協同組合は現在、80を超える世帯が加わり、村内には30の薬草風呂施設と80室以上のホームステイ部屋が整う。来客は1日あたり30〜50人ほど。組合全体の年間売上は約40億ドン(約15万2,000米ドル)に達し、組合員の月平均収入は500万〜600万ドンとされる。
金額の規模感を、確認できた数値だけで整理する。為替は1米ドル≒155円、1円≒170ドンを目安とした。
| 項目 | 数値 | 円換算の目安 |
|---|---|---|
| 組合の設立年 | 2015年 | — |
| 創設メンバー | 紅ザオ族女性120人 | — |
| 薬草風呂施設 | 30施設 | — |
| ホームステイ部屋 | 80室以上 | — |
| 1日の来客 | 30〜50人 | — |
| 年間売上 | 約40億ドン(約15.2万米ドル) | 約2,350万円 |
| 組合員の月収 | 500万〜600万ドン | 約2.9万〜3.5万円 |
月収はベトナム農村部としては安定した水準だ。重要なのは、この収入が外部の企業ではなく、入浴・宿泊・手仕事を提供する女性たち本人の手元に残る設計になっている点にある。
刺繍工房とミツロウろうけつ染めという、もう一つの収入源
タフィン村の生業は薬草風呂だけではない。100人を超える地元女性が縫製・刺繍のグループに参加し、紅ザオ族特有の文様を入れたバッグ、スカーフ、財布、衣類などを手作りして販売している。さらにミツロウを使ったろうけつ染め(バティック)や麻織り、鍛冶といった伝統技術も体験プログラムに組み込まれている。
ミツロウろうけつ染めは、溶かした蜜蝋で布に文様を描き、藍などで染めてから蝋を落とすことで白い模様を残す技法だ。一枚の布が仕上がるまでの工程を観光客が自分の手で試せるため、「土産物を買う」だけでなく「作り手の時間を共有する」体験として価値が生まれている。薬草風呂で体を温め、翌朝に刺繍やバティックを学ぶ。この一泊二日の流れが、タフィン村のホームステイの典型的な過ごし方になっている。
現地と業界の受け止め
地域おこしの担い手からは、好意的な声が目立つ。協同組合の関係者は「以前は山の畑仕事だけが収入源だったが、いまは家にいながら現金収入が得られる」という趣旨の発言を各種メディアで重ねてきた。観光をきっかけに若い女性が村に残るようになった、との指摘も多い。
旅行者の反応も具体的だ。サパ中心部のホテル泊と比べ「観光地化されていない暮らしに触れられた」「薬草風呂のあと、刺繍を教わる時間が一番記憶に残った」といった体験重視の感想が、トレッキングツアーのレビューに並ぶ。一方で、来客の増加にともない「混雑する日は静けさが薄れる」という声もあり、受け入れ規模の管理が次の課題として意識され始めている。
行政の動きも後押しになっている。ラオカイ省には公式に認定された工芸村・伝統職業が66ある。省は2026〜2030年にかけて32の工芸村と20の伝統職業の再生、観光と結びついた12の工芸村の育成を掲げており、タフィン村はその先行モデルと位置づけられている。
日本人旅行者・地域づくりの担い手への示唆
タフィン村が示すのは、「文化を守ること」と「稼ぐこと」が対立しないという事実だ。薬草の配合、刺繍の文様、ろうけつ染めの技法は、観光客が対価を払う理由そのものになっている。守るべき伝統を商品化のために薄めるのではなく、本物のまま体験として開いたことが、結果として高い満足度とリピートを生んでいる。
これは、地方の食材や農の現場を価値に変えたい日本の生産者・自治体にも通じる。たとえば中部の伝統的なものづくりを観光に開いた事例として、ホイアン近郊で見直しが進むダナン近郊の陶芸村の取り組みは、タフィン村と同じく「作り手の手元に対価を残す」設計が鍵になっている。比較すると、タフィン村は女性が主体である点、薬草・宿泊・手仕事を一つの滞在に束ねている点で一歩進んでいる。
滞在型で地域を味わうという視点では、街なかのホテルを拠点にせず一カ所に連泊する旅のかたちも参考になる。ホイアンで連泊して暮らすように過ごす旅と組み合わせれば、北のタフィン村と中部ホイアンで「ベトナムの二つの手仕事の村」を巡る行程が描ける。
市場への波及
少数民族の生業ツーリズムは、ベトナム北部の観光戦略の中で位置づけが上がっている。マスツーリズム型のサパ中心部が飽和に近づくなか、タフィン村のような分散型・体験型の目的地は、滞在日数と一人あたり消費額を伸ばす受け皿になる。手仕事の体験は単価が高く、宿泊・飲食・物販を一つの村で完結させられるため、地域に落ちるお金の割合が大きい。
この流れは、北部の他の少数民族の村にも広がる可能性がある。雲海と市が立つ北部の雲市のような既存の観光資源と、タフィン村型の宿泊・手仕事体験を組み合わせれば、北部山岳部を周遊する数日間の旅程が成立する。日本の旅行会社にとっても、定番のサパ・ハロン湾に続く「次の北部」を組み立てる素材になりうる。
アクセスと体験の実用情報
タフィン村へはサパ中心部からバイクタクシー(セオム)で約30分。山道のため、トレッキングなら経路によって12〜14キロを歩く。サパ湖の周辺から小道を進み、マチャ(Ma Tra)村を経由してタフィンに入るルートが歩きやすいとされる。
- ベストシーズンは3〜5月、または9月中旬〜12月初旬。棚田が最も美しく、天候も安定する
- 薬草風呂はホームステイや組合の施設で体験でき、トレッキングとセットの日帰りツアーも組める
- 刺繍・バティック体験は翌朝に組み込むと、入浴で体を温めた後にゆっくり取り組める
- 刺繍製品やシルバーアクセサリーは作り手から直接購入でき、土産として持ち帰れる
ハノイからサパへは寝台列車または高速バスでアクセスし、サパを拠点にタフィン村へ足を伸ばす行程が一般的だ。雨期や厳冬期は山道が滑りやすくなるため、移動はガイドや経験のあるドライバーに頼るのが安全だ。
まとめ:次の北部ベトナムは「手仕事の村」で泊まる
タフィン村の薬草風呂と刺繍は、紅ザオ族の女性たちが自らの文化を価値に変え、村に現金収入を残してきた持続可能ツーリズムの好例だ。サパを訪れる予定があるなら、中心部のホテルに一泊足して、タフィン村のホームステイを行程に組み込んでみてほしい。トレッキングの後に薬草風呂で体を温め、翌朝に刺繍やろうけつ染めを学ぶ。その一連の体験が、北部ベトナムの旅で最も記憶に残る時間になるはずだ。手仕事を観光に開きたい日本の地域づくりの担い手にとっても、現地を歩いて学ぶ価値のあるモデルである。
