ベトナムコーヒーのブランドはたくさんありますが、「アメリカの町をまるごと買って、その名前を自社ブランドに変えた」という来歴を持つのはPhinDeli(フィンデリ)だけです。ホーチミン市発のこのコーヒーは、創業者がワイオミング州の小さな町をオークションで競り落とし、町ごと看板に変えてしまったという逸話とともに知られています。一杯のコーヒーの背後にある物語を追うと、PhinDeliというブランドの輪郭が見えてきます。
人口1人の町を買った男
話は2012年4月にさかのぼります。アメリカ・ワイオミング州に、人口1人という記録で知られる町バフォード(Buford)がありました。1980年からこの町を所有し、自らを町長と名乗りながら一人で暮らしていたドン・サモンズ氏が、20年以上を過ごした町を手放すことを決め、オークションにかけたのです。10エーカーほどの土地、ガソリンスタンド兼雑貨店「バフォード・トレーディング・ポスト」、住居などがひとまとめになった出品でした。
世界46か国から入札希望が集まったこの競売を制したのが、ホーチミン市に暮らすベトナム人実業家ファム・ディン・グエン氏でした。落札額は90万ドル。アメリカに来たこともなかった一人のベトナム人が、太平洋の向こうの「全米で最も小さな町」の新しい持ち主になったのです。グエン氏がこの町を欲しがった理由は、不動産投資でも移住でもありませんでした。自分のコーヒーをアメリカで売り込むための舞台が欲しかった、ただそれだけです。
町の名前がブランドの名前になった日
落札からおよそ1年半後の2013年9月、グエン氏は買い取った町で除幕式を開きました。州や郡の関係者、地元住民、ベトナム系アメリカ人のゲスト、報道陣が見守るなか、彼は町の名前を「PhinDeli Town Buford(フィンデリ・タウン・バフォード)」へと改めると発表します。前の所有者だったサモンズ氏は「共同町長」として招かれ、町の日常運営を任されました。アメリカの町が、外国の商品を売るために名前を変えた珍しい事例として、当時は大きく報じられています。
ブランド名の「PhinDeli」は、ベトナムコーヒーに欠かせない金属製の滴下式フィルター「phin(フィン)」と、英語で美味を意味する「deli(delicious)」を組み合わせた造語です。ベトナムの抽出文化と、世界に届けたいという思いが、そのまま名前に込められています。PhinDeli社自体は2013年にサイゴンで設立され、まずアメリカとカナダの消費者に向けてベトナム産コーヒーを届けることを掲げてスタートしました。町を買った話題性は、無名のベトナムブランドが北米市場のドアを叩くための、大胆な名刺がわりだったわけです。
「町を買う」という発想に表れたブランド哲学
広告枠を買う代わりに町そのものを買う、というのは普通の発想ではありません。この選択にはPhinDeliという企業の性格がよく表れています。ベトナムコーヒーは生産量で世界有数の規模を持ちながら、消費国の店頭では原料や業務用として扱われることが多く、ブランドとして前に出る機会が限られてきました。その構図を逆手に取り、「ベトナム発のコーヒーが、アメリカの地図に名前を刻んだ」という物語を自ら作り出したのがグエン氏のやり方です。
背景には、出自を隠さずむしろ売りにするという姿勢があります。ベトナムの飲み方そのものを名前に取り込み、ベトナム産の豆を前面に出す。グローバル市場で通用させるために個性を薄めるのではなく、ベトナムらしさを濃く打ち出すことで記憶に残そうとした、と読み取れます。一杯のコーヒーを売る前に、まず物語で覚えてもらう。PhinDeliのスタート地点には、そうした考え方が貫かれていました。
カップの中にあるベトナムらしさ
PhinDeliが大切にしているのは、ベトナムの伝統的な飲み方を起点にした味わいです。ベトナムコーヒーといえば、phinと呼ばれる金属フィルターをカップやグラスの上に載せ、お湯を注いでゆっくり一滴ずつ抽出する淹れ方が知られています。深めの焙煎による濃く力強い味と、加糖練乳を合わせた甘さのコントラストは、暑い気候のなかで親しまれてきた飲み方です。ブランド名にphinを掲げている通り、PhinDeliはこの抽出文化を土台に置いています。
北米向けにスタートした当初は、現地のコーヒー愛好家に向けてロースト&グラウンド(焙煎・挽き済み)の製品を届ける形でした。その後ベトナム国内での展開に軸足が移るなかで、味づくりやレシピ、商品ラインにも手が加えられていきます。とはいえ、phinを名乗るブランドである以上、ベトナムの淹れ方と地続きの濃厚さが、味の個性として受け継がれている点は変わりません。アイスでも甘さを合わせた一杯でも、ベトナムコーヒーらしい飲みごたえを楽しめます。
町から街角へ。今のPhinDeliをどこで飲めるか
バフォードの逸話から数年を経て、PhinDeliのブランドは新しい局面に入りました。2021年、ベトナムの大手グループNovaGroup傘下で食品・飲料事業を手がけるNova Consumerが、PhinDeliブランドを取得します。これを機に、デザインやレシピ、商品を刷新したうえで、クラフトコーヒーを掲げるカフェチェーンとしてベトナム国内で店舗展開を本格化させました。かつて遠いアメリカの町の看板だったブランドが、ホーチミン市の街角で日常的に飲めるコーヒーへと姿を変えていったのです。
旅行者がPhinDeliに出会うなら、ホーチミン市内に展開するカフェ店舗が入口になります。市街地の立地を中心に出店しており、ベトナムコーヒーの定番から、フィルターを使った一杯まで、ブランドの世界観をその場で味わえます。「人口1人の町を買った男のコーヒー」という前提を知ったうえで一杯を頼むと、ただ濃くて甘いベトナムコーヒーが、少し違った味わいに感じられるかもしれません。
Summary
PhinDeliは、ベトナムコーヒーを世界に届けるという思いを、「アメリカの町を買う」という型破りな行動で表現したブランドです。人口1人の町バフォードを2012年に90万ドルで競り落とし、町の名前を自社ブランドに変えた創業者ファム・ディン・グエン氏の物語は、ベトナム発という出自を隠さず武器に変える姿勢そのものでした。Nova Consumer傘下でカフェチェーンとして再出発した今、その物語は店頭の一杯にも静かに息づいています。ホーチミン市を訪れたら、由来を思い浮かべながらPhinDeliのコーヒーを味わってみてください。
🗺️ PhinDeliの基本情報・看板メニュー・地図・口コミは店舗ガイド(カード)でまとめています。
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