ベトナムのカフェに入って、いつものポップスの代わりに落ち着いた朗読の声や、アニメの主題歌らしき音が流れていたら、それは店主が「わざと」選んだBGMかもしれません。2026年7月1日から、飲食店が店内で音楽を流すと著作権料の支払い義務が生じるようになり、ハノイの一部のカフェでは音楽そのものを別の音声に差し替える動きが出ています。旅行者にとっては、次にベトナムのカフェに入ったときの「あの違和感」の正体を知る話であり、同時にベトナムの店がいま何にコストをかけたくないのかを映す一件でもあります。
7月から始まった「カフェの音楽にお金がかかる」制度
きっかけは、飲食店など商業施設で公に音楽を流す場合の著作権料を定めた政令134号(Nghị định 134/2026)です。2026年7月1日に施行され、カフェやレストランで日常的にBGMを流す店は、権利者に対して年単位で使用料を納める建て付けになりました。金額は店の営業面積と、同じ7月から引き上げられた基礎賃金に連動して計算されます。
ハノイで3店舗を営むある店主(37歳)は、施行日に合わせてBGMを一斉に入れ替えました。約300平方メートルのハオ・ナム店ではオーディオブックの朗読音声に、約150平方メートルのファム・ゴック・タック店ではYouTubeで配信されるアニメ映画やゲーム実況の音声に、約50平方メートルのドゥオン・クエ店でも同様に、それぞれ音楽以外の音源へ切り替えたと語っています。
なぜ「音楽をやめる」のか──店主が避けたかったコスト
この店主が一番避けたかったのは、ドリンク価格の値上げでした。「税金、従業員の社会保険、駐車料金、材料費と、あらゆる支出が上がっている。客の価格感度が高いいまの時期に、コーヒー代を上げたくない」という趣旨のコメントを残しています。BGMを音楽から別ジャンルに変えることは、その一つの回避策として選ばれました。
実際に音楽を流し続けた場合の負担感を、150平方メートルのファム・ゴック・タック店を例に見てみます。この店では年間およそ950万ドンの著作権料になるとされています。1円=約165ドン(2026年7月時点の目安)で換算するとおよそ5万8千円です。金額だけ見れば「そこまでか」と感じるかもしれませんが、複数店舗を抱える経営者にとっては、値上げに直結しかねない固定費が一つ増える話として受け止められています。
料金はどう決まるのか──面積で決まる計算式
政令134号の考え方はシンプルで、「1年あたりの著作権料 = 基礎賃金 × 調整係数」という式です。7月1日から適用された基礎賃金は月2,530,000ドンで、これに面積に応じた調整係数を掛けます。
| 営業面積の区分 | 係数の増え方 |
|---|---|
| 15平方メートルまで | 基本係数0.35 |
| 15〜50平方メートルの部分 | 1平方メートルごとに+0.04 |
| 50平方メートルを超える部分 | 1平方メートルごとに+0.02 |
この式に前述の150平方メートルを当てはめると、係数は0.35+(50−15)×0.04+(150−50)×0.02=3.75。基礎賃金2,530,000ドンを掛けると約9,487,500ドンとなり、報道で示された「約950万ドン」とほぼ一致します。都市の区分によって割引もあり、地方に行くほど料率は下がる仕組みです。ただし上限も定められており、1年あたりの上限は基礎賃金の8倍、つまり20,240,000ドン(約12万円)を超えないとされています。
「音楽を消せば安全」ではない──専門家が指摘するリスク
音楽をやめて朗読やアニメ音声に切り替える対応について、法律の専門家からは慎重な声も出ています。ホーチミン市の弁護士は、オーディオブックには文学作品そのものの著作権に加え、朗読者の権利や制作会社の権利が絡み、アニメ映画には脚本・映像・音楽・声優・録音・製作会社の権利が重なると指摘しています。
つまり「音楽だけ避ければ権利処理は不要」という単純な話ではなく、商業目的で店内に流す以上、YouTubeを個人で視聴するのとは別の権利の問題が生じ得るということです。制度が音楽以外にも及ぶ余地があるため、いまの朗読・アニメ音声への切り替えは、あくまで当面の回避策にとどまる可能性があります。
客はどう感じているのか
肝心の客の反応は、店主にとってはむしろ追い風でした。複数の利用客への取材では、BGMが音楽かどうかよりも「コーヒーの味と、静かに過ごせる空間」を重視する声が目立ったといいます。会話や仕事に集中したい層にとって、控えめな朗読音声や無音に近い環境は、むしろ居心地がよいと受け止められているようです。
音楽が店の個性を作ってきたカフェ文化のなかで、この反応は象徴的です。ベトナムのカフェは長らく音楽と一体でしたが、コスト構造の変化が、静けさを売りにする店を後押しする形になりつつあります。
ベトナム旅行で「次に使える」視点
旅行者としては、この一件を知っておくとカフェ選びの解像度が少し上がります。仕事や読書のためにカフェを探すなら、7月以降の「音楽が控えめ・朗読やアンビエント音声を流す店」はむしろ狙い目になりました。逆に、ライブ演奏やしっかりした選曲を売りにするカフェは、相応にBGMコストを負担していると考えられ、価格やチャージにそれが反映されている場合もあります。
移動や滞在のコスト感を掴むうえでは、ベトナム側の制度変更が旅行者の負担に波及する例をあわせて見ておくと便利です。7月からの移動面の変化はホーチミンの路線バス134路線が7月から無料になる件にまとめており、入国前の手続きは7月から復活したベトナム入国の健康申告で確認できます。制度の切り替えが集中する時期なので、旅の前にまとめてチェックしておくと安心です。
飲食・小売の現場に広がる影響
この動きはカフェだけの話にとどまりません。レストラン、雑貨店、コワーキングスペースなど、BGMを流すあらゆる商業空間が同じ計算式の対象になり得ます。権利料を正規に支払うには、作曲家・著作者を代表するベトナム音楽著作権保護センター(VCPMC)か、レコード製作者・実演家を代表するベトナムレコード産業協会(RIAV)といった管理団体に連絡する必要があります。
店側の選択肢は大きく三つに分かれます。正規に使用料を払って音楽を流し続けるか、著作権フリーの音源やロイヤリティフリー配信に切り替えるか、あるいは今回のように音楽そのものをやめて別の音声に振り替えるかです。日本でも店舗BGMは管理団体への支払いが前提ですが、ベトナムでは制度が本格運用に入ったばかりで、現場が対応を模索している段階だといえます。
Summary
ハノイのカフェで朗読やアニメの音声が流れていたら、それは制度変更に対する店なりの工夫の跡です。次にベトナムでカフェに入るときは、BGMに少し耳を澄ませてみてください。静かな環境を求めるなら音楽控えめの店を選び、逆にライブや選曲を楽しみたいなら、その分のコストを店が負っていることを頭の片隅に置いておくと、店選びに納得感が出ます。7月は移動や入国の制度も同時に切り替わる時期なので、旅の前に関連情報をまとめて確認しておくのがおすすめです。
